第3代 忠次 (1556-1613)

3代「忠次」、通称は「平右衛門」。「忠重」という名もあった様です。第2代と同じ名前を名乗っていた様です。ここでは、2代を「正忠」3代を「忠次」と致します。

「忠次」は、数々の戦いに参陣し、御使番として戦場を駆け巡り、二条城、彦根城、江戸城などの築城に貢献し、さらに【慶長國繪圖】の作成に携わるなど、武芸と行政の両方に長けた傑出した人物であったようです。


「忠次」は、元亀2年(1571年)15歳の時に「岡崎三郎信康」に仕えました。同年2月、「信康」は、大井川を超えて徳川領内に侵攻してきた武田信玄軍2万5千人と交戦し、また翌3月5日には、東遠江の高天神城(たかてんじん城)を取り囲んだ武田信玄軍と交戦しました。「忠次」は、この武田軍との戦いに参陣、戦功を上げたと伝えられています。

その後、「忠次」は、東照宮(徳川家康)に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは家康の名代として御使番を務め、また慶長5年(1600年)4月の関ヶ原の戦いでも再び御使番として活躍しました。


関ヶ原の戦いの翌年、1601年(慶長6)徳川家康は、「忠次」を二条城の普請奉行に任じます。

さらに、1604年(慶長9)徳川家康は、「井伊直継」に佐和山城の北西にある磯山に彦根城の築城を命じ、また「宮内少輔忠久」、「佐久間河内守政実」、「犬塚忠次」の3名を普請奉行に任じ「直継」を助勢させました。


1605年(慶長10)徳川家康は、統治者として国土の基本図と国土土地台帳を完備するため地図編纂事業に着手し、「西尾吉次」を総奉行として、更に「津田秀政」、「牧長勝」、「犬塚忠次」の3名を奉行に任じて、全国の諸大名に国絵図と郷帳の作成提出を命じました。この絵図は、【慶長國繪圖】とよばれ、郡ごとに色を変えて郡の範囲と村々の位置が示され、郡名・村名・村高や他に山・河・海・の地形、主要な街道、一里塚の位置、名所宮跡等が示されています。

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1607年(慶長12)に行われた江戸城の普請に関しても、「忠次」は、石垣の石を運ぶ石艘の手配に深く関わっていたという研究があります。


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http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/sg04709.pdf?file_id=9060


「忠次」は、1613年(慶長18)2月19日に亡くなり、享年57歳でした。


相馬氏(相馬中村藩)に関する別の資料によると、「犬塚忠次」の桜田屋敷は、現在の農林水産省の場所にありましたが、1601年(慶長6)11月に相馬氏(相馬中村藩江戸藩邸)にその屋敷を譲り、別の場所に移ったそうです。

日比谷公園から農林水産省を望む2023年2月23日

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http://chibasi.net/hanshu1.htm

また、「犬塚忠次」には「三十郎正長」(求馬之介)という弟がいました。「正長」は、井伊家の家臣になって関ヶ原の戦いで、主人井伊直政に従い武功をたて、これ以降、井伊家の犬塚家は1500石の用人役(家老・中老に次ぐ地位)を代々努めました。「正長」の赤備えを身につけた雄姿は、井伊家に伝来する「関ヶ原合戦図」の屏風絵の中で直政近くに描かれています。

「花の生涯」の中に登場する「犬塚外記」は求馬之介の子孫です。