忠暁の妻

忠暁の妻は、曲淵景衝の娘です。曲淵家は、武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔。忠暁の妻の兄、曲淵景漸は、明和6年(1769年)に江戸北町奉行に就任し、約18年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力しました。

喜八郎

16代「犬塚亀」が書き記した過去帳によると、「犬塚良重」には「犬塚喜八郎」という長男がいましたが、元服前の1693年に早世しました。

文京区小石川善仁寺の15番の墓石に眠っています。戒名は真聖院殿釋法水 です。

家督は弟の「犬塚忠倫」に引き継がれました。

細川忠隆が、慶長10年(1605年)から同14年(1609年)に京都に滞在していた時に千世との間に生まれた4子女、徳、吉、福、万のうちの一人。徳は後に左大臣・西園寺実晴室、福は後に久世家初代・通式室。

3代忠次妻

「犬塚忠次」の妻は、石川右馬允康正の娘です。一旦、松平周防守康親の養女となってから、忠次に嫁いでいます。

https://geocity1.com/okugesan_com/matsui.htm

石川右馬允康正とは、石川数政の父親です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%95%B0%E6%AD%A3

以下は、井伊家家臣、犬塚求之介正長のご子孫の方からお聞きした内容です。
犬塚忠次の正室は、松平周防守康親女(養女)で、実は石川右馬允康正の娘です。石川家は、石川清兼⇒康正⇒数正(徳川草創期の筆頭家老)と続きます。


忠次正室の母は、康正の側室である三河國東蔵前村の天神社社人加茂彦九郎の娘です。康正との間に5人の娘を設けた後、康正の死後「東照宮の御側ちかくにつかえたてまつり、其のちおほせによりて松平周防守康親にあたえらる」。 その時(1568年)、妊娠三ヶ月であったといわれ『証拠に「信国の小脇差」を添えられ下賜された』 ということです。その後、男子を出産し、その子が二代目松平康重となりました。 また康親に男子はできませんでしたが、実の娘が一人おり「井伊直政」の正室となります。


石川数正(1533~1593)と犬塚平右衛門忠次(1557~1613)の年齢を考えると、石川右馬允康正の娘(忠次正室)は、数正の妹と考えられ、資料では石川右馬允康正と加茂氏の娘の次女と記されています。犬塚忠次の正室は「赤羽殿」と呼ばれていました(松井家譜)。法名は 「称讃院殿釋尼妙慶大姉」です(松井松平家御家譜)。卒年は 「寛永六年(1629)六月十九日」です(松井家譜・松井松平家御家譜)。享年・葬干地 は共に不詳ですが、享年は69歳前後と考えられます。

石川家、犬塚家、松井松平家、徳川家、井伊家の相関家系図は、こちらです。

良重の妻

「犬塚良重」の妻は、榊原八兵衛政盛の娘です。

榊原政盛は、藤原秀郷の流れを組む一族の様です。現在までの所、墓石は特定できていませんが、文京区小石川善仁寺に眠っていると思われます。なお、娘二人の墓石は、文京区小石川善仁寺に現存しています。

以下、サイトからの引用

「秀郷流藤原氏を称し、三河の榊原氏の惣領家と考えられる。
親氏以来代々の松平家に仕えたとされ、忠次は広忠期の家老となり、忠政は家康の小姓として人質時代から近侍しており、長久手役までの主要な合戦に供奉した。孫忠豊の時に本家は無嗣断絶となったが、子弟の多くが中級の旗本として遇されている。遠山金四郎の母系でもある。」

http://iwarehiko.web.fc2.com/page109.html

榊原八兵衛政盛

インターネットで検索すると、「榊原八兵衛政盛」に関する記述はありませんでしたがが、その子の「榊原忠知」に関しては、下記の記述が見つかりました。

https://kotobank.jp/word/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E7%9F%A5-1077327

1660-1729 江戸時代前期-中期の武士。
万治(まんじ)3年生まれ。幕臣榊原政盛(まさもり)の長男元禄(げんろく)4年家督をつぐ。火事場目付(めつけ),使番(つかいばん)などをへて先手鉄炮頭,持弓頭から享保(きょうほう)10年新番頭に転じた。享保14年9月15日死去。70歳。初名は政純。

忠世の妻

「犬塚忠世」の妻は、「犬塚重世」の弟で松平周防守康親の家臣となった、犬塚大学(後に半吾正真)の娘です。「犬塚忠世」は、青木小右衛門正定の三男で、犬塚家に養子に来ましたが、妻に血のつながった犬塚大学の娘を娶りましたので、血脈は残りました。(大学の異母兄弟である「伊織」後の松井半吾の娘である可能性もあります。)

重世の妻

蒲生飛騨守秀行の家臣で、二本松城の城代であった梅原弥左衛門の娘

梅原弥左衛門

蒲生秀行の家臣で二本松城の城代を務める。

二本松城とは、(ウィキペディアより)

室町時代初期の興国2年/暦応4年(1341年)、室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国が塩沢・殿地が岡(「田地が岡」とも)に最初の居を構え、地名を二本松と改称し、畠山氏7代当主・二本松満泰応永21年(1414年)もしくは嘉吉年間(1441年 – 1443年)にこの地に二本松城を築いた。

以後、陸奥に定着していた二本松氏は、戦国時代になると伊達政宗の攻撃を受ける。天正13年(1585年)10月、15代当主・二本松義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出た。輝宗のもとに出向いた義継は、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺された(粟之巣の変事)。政宗はすぐに二本松城攻めを開始したが、守備側は義継の子・国王丸を継嗣に立て籠城、城は政宗の猛攻によく耐え、援軍の佐竹義重相馬義胤らが加勢に駆けつけたこともあり(人取橋の戦い)、政宗の攻撃を撃退した。しかし翌天正14年(1586年)に政宗が再度二本松城へ進軍すると内通者が出たため、7月16日に相馬義胤の口添えにより二本松城は開城、ここに二本松氏は滅亡した。

政宗は片倉景綱、次に伊達成実を二本松城代としたが、天正19年(1591年)に政宗が葛西大崎一揆の戦後処理で豊臣秀吉の命令により岩出山城に転封されると、二本松城は会津若松城蒲生氏郷の支城となった。氏郷は蒲生郷成町野重仍を城主に据えたが、慶長3年(1598年)に氏郷の子秀行が秀吉の命令で転封、代わって上杉景勝が会津に入ると城代は再度交代し下条忠親が城代となった。

上杉景勝が会津を領有した期間は短く、2年後の慶長5年(1600年)、徳川家康に敵対した景勝は関ヶ原の戦いの後に米沢城に移された。会津には蒲生秀行が復帰し、梅原弥左衛門と門屋勘右衛門が二本松城代となった。

正長

彦根犬塚家元祖 犬塚正長  通称:三十郎 求之介

     母 酒井雅楽助正親妹

     永禄十二年(1569年) 月 日生  

     寛永二十年(1643年)二月二日卒  

享年七十五才(数え年;以下同)

法名:無量院殿淨譽清安禪定門

    正長室 松居武太夫清易女  名:不詳

     元亀二年(1571年) 月 日生

     慶安元年(1648年)三月十五日卒  

享年七十三才

    法名:榮性院殿安譽壽慶大姉

「犬塚三十郎正長」(求之介)は、井伊家の家臣になって関ヶ原の戦いで、主人井伊直政に従い武功をたて、これ以降、井伊家の犬塚家は1500石の用人役(家老・中老に次ぐ地位)を代々努めました。「正長」の赤備えを身につけた雄姿は、井伊家に伝来する「関ヶ原合戦図」の屏風絵の中で直政近くに描かれています。

「花の生涯」の中に登場する「犬塚外記」は求馬之介の子孫です。

以下は、彦根歴史研究の部屋からの引用

<引用開始>
 犬塚求之介正長は、「由緒帳」「貞享異譜」によると、生国は三河で、父は旗本の犬塚太郎左衛門正忠、兄平右衛門忠次がその跡を継いで旗本の家として存続している。正長自身は箕輪で召し出されて小姓・小納戸役を務めた。関ヶ原合戦時には武功を挙げた褒美として、直政から緋縅の具足を拝領したという。
 兄犬塚忠次は旗本で、『寛政重修諸家譜』にも記される。普請奉行を務め、彦根城築城時にもたずさわったとある。 慶長七年(1602)の分限帳では、犬塚三四郎として700石取と記される。  <引用おわり>

ただし、上記の「犬塚三四郎として700石取と記される」の犬塚三四郎は、正しくは「犬塚三十郎」です。

「井伊家 犬塚求之介正長 の子孫」の方からご提供頂いた下記家系図を2つ掲載致します。

改正犬塚氏略系図

犬塚七蔵系犬塚氏四流略譜完