10代「忠休」(1748年生まれ、1800年没)

10代「忠休」、通称は「平右衛門」、「隼人」でした。 文化元年(1804年)【懐中道しるべ】によると屋敷は牛込早稲田にありました。

「犬塚忠曉」には家を継ぐ子供がいなかったため「犬塚忠暉」を養子にしましたが、その「犬塚忠暉」が早世したため、改めて堀川兵部大輔廣益の五男を「犬塚忠曉」の養子にして「犬塚忠休」とし、また齋藤次左衛門利武の娘も「犬塚忠曉」の養子にして「犬塚忠休」の妻としました。夫婦ともに他家からの養子であったため、家祖「犬塚忠吉」からの血縁はここで絶えることになります。

安永4年(1775年)12月18日に将軍に拝謁しました。浚明院(徳川家治)に仕え、安永7年(1778年)11月5日、24歳の時に家督を相続しました。天明元年(1781年)8月22日に御小姓組番士となります。「犬塚忠休」は寛政12年(1800年)7月6日に亡くなり、享年52歳でした。墓石1番で眠っています。

この時代に幕府は、「寛政重修諸家譜」を編纂するためにの史料の提出を大名や旗本に命じました。「忠休」の大きな功績の一つは、犬塚家の系譜とその資料(諸家系譜)を取り纏め幕府に提出したことだと思います。幕府が「寛政重修諸家譜」の編纂を開始したのは1799年(寛政11)なので、その時には、家祖「忠吉」の血を引いた先代「忠暉」や先々代「忠暁」はすでに亡くなっていて、代々語り継がれた物語を聞く相手もいず、また、恐らく家宝にどんな由縁があるのかもわからず、系譜とその資料を取り纏めるのは大変な苦労だったと思います。その上、「忠休」の長男「忠行」は1799年(寛政11)に亡くなっています。長男の早世の悲しみの中で堀川家から来た「忠休」が犬塚家の諸家系譜を纏めてくれたと思うと、とても切ない思いがします。恐らく心労もあったのだと思いますが、先述の通りその翌年1800年(寛政12)に52歳で「忠休」は亡くなりました。

「犬塚忠休」の実父、堀川兵部大輔廣益は、江戸時代中期の高家旗本でした。高家とは、儀式や典礼を司る役職で、高家職に就くことのできる旗本(高家旗本)は、主に著名な守護大名・戦国大名の子孫や公家の分家など、いわゆる「名門」(原義の「高家」)の家柄でした。堀川家は、その子供「広之」の代に苗字を有馬に代え幕末まで高家を務めて行きます。

堀川兵部大輔廣益の父親は権中納言の久我通名で、母親は西園寺公満の娘でした。西園寺家の家系を遡って行くと、前田利家や明智光秀、ガラシャ、細川藤孝などの歴史上の人物に繋がります。また、西園寺家の家系を下ると天皇家に繋がり、血筋は大分薄いですが我々と繋がっています。堀川家の家系図はこちら。

「犬塚忠休」には、長男「忠行」の他に、次男「寛之丞」、三男「健三郎」、四男「福司」、五男「忠邦」の5人の男子がいました。長男「忠行」が家督を継いだ後、次男「寛之丞」が家督を継ぎ、さらに五男「忠邦」が家督を継ぐことになります。【寛政重修諸家請 千七十七】に「忠邦」の名前がありませんので、「忠邦」は【寛政重修諸家請 千七十七】編纂後に生まれたと考えます。

恐らく、男子がいなかったため家督を継がなかった「健三郎」諱(いみな)は「興行」は、1853年に亡くなり墓石15番に、そして「福詞」諱は「克敏」は、1849年に亡くなり長兄「忠行」や甥「三七郎将順」と共に墓石6番に眠っています。