14代 忠良(生年不明、1899年没)

14代「犬塚忠良」、通称は「犬塚小善次」でした。

安政6年(1859年)稿【旗本いろは分】によると、浅草堀田原に屋敷があったと書かれています。【寛政譜以降旗本家百科事典 第1巻】によると、拝領屋敷は浅草小指(揚)町裏通堀田豊前守上地住宅、本所菊川町と書かれています。

安政2年(1855年)書院番酒井組を務め、元治元年(1864年)11月2日より小普請になります。

神奈川県厚木市にある船子八幡神社には、徳川家康が船子八幡神社に与えた朱印状が現存しています。この朱印状を慶応元年(1865年)8月に八幡神社本殿に納めた時の添書き「奉献納添」も現存しており、そこには「犬塚忠良」が「犬塚小善次」と署名しています。船子八幡神社は、知行地であった相模國愛甲大住郡にありました。

「犬塚忠良」には、長男「犬塚鉞太郎」、次男「犬塚興四郎」、三男「犬塚忠親」、四男「犬塚亀」の男子がいました。長男「犬塚鉞太郎」、次男「犬塚興四郎」は早世したため、家督は三男「犬塚忠親」が継ぎました。

長男「犬塚鉞太郎」は天保4年(1833年)8月5日に亡くなり、文京区小石川善仁寺の墓石5番に眠っています。

次男「犬塚興四郎」は安政2年(1855年)11月24日に亡くなり、文京区小石川善仁寺の墓石5番に眠っています。

「犬塚忠良」は明治32年(1899年)12月1日に亡くなり、13代「犬塚忠邦」と共に文京区小石川の善仁寺の墓石Bで眠っています。

「犬塚忠良」の妻である「美子」は、明治24年(1891年)6月9日に亡くなり、元禄16年(1703年)10月10日に亡くなられた良重の娘と一緒に文京区小石川善仁寺の墓石8番に眠っています。

また、この「犬塚忠良」の墓石には、『永代祠堂金拾圓 施主 嶋田ふみえ納 明治39年9月納』と彫られています。明治39年は1906年です。「忠良」が亡くなって7年後なので、七回忌の時に納めたのではないかと思います。嶋田ふみえ は「忠良」と「美子」の娘で嶋田家に嫁いだ方なのかも知れません。

永代祠堂とは、申込を行うと永代祠堂台帳に戒名(俗名)が記載され、永代にわたって祥月命日に回向(えこう)と呼ばれる供養が行われることの様です。