16代 亀(1858年生まれ、1936年没)

「犬塚亀」は、幼名です。元服前に明治維新となり、生涯幼名で通したようです。

「犬塚亀」は、天理教に入信したため、浄土真宗である善仁寺ではなく、東京都染井霊園の墓地に眠っています。

権中講義を勤めていました。明治政府は、神道国教化のために宗教官吏を設置し、その宗教官吏のことを教導職と呼びました。教導職は、敬神愛国、天理人道、皇上奉戴に基づいて説教を行いました。その他、家族倫理、文明開化、国際化、権利と義務、富国強兵についての講義が行われ、国民教育の一端を担いました。教導職には全部で14の階級があり、権中講義は10番目の階級です。

「犬塚亀」とその妻「はな」には、「犬塚喜一」、「犬塚清二」、「犬塚忠三」、「犬塚東平」の4人の男子がいました。改製原戸籍によれば、住居は、東京市神田區三河町三丁目二十八番地と記録されています。東京市神田區は現在の東京都千代田区なので、千代田区役所に「亀」の戸籍の照会に行きましたが、既に80年が経過しているため現存していませんでした。また、本所区東両国四丁目2番地の一に引っ越した記録もありましたので、墨田区役所にも除籍謄本の照会に行ったところ、昭和20年(1945年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)の際に焼失したとの通知を受けました。(本所区は現在の墨田区)

次男「犬塚清二」は、母親「はな」の実家である伊東家に養子に行かれました。「犬塚せいじ(精二?)」は、伊東家で結婚し、昭和2年に女子「みちこ」が生まれました。

「みちこ」は成長し、東京駅丸の内側にある東京中央郵便局に勤めていました。当時の東京中央郵便局は建て替えられ、現在は跡地にJPタワーが建っています。

昭和17年(1937年)に「犬塚せいじ(精二?)」は、お亡くなりになられたと言い伝えられています。

「犬塚せいじ(精二?)」の妻(名前不詳)と「みちこ」は、昭和20年(1945年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)で亡くなられたそうです。また、両人のご遺体は見つからなかったと聞いています。

伊東家は、「犬塚せいじ(精二?)」が養子に入りましたが、絶えてしまいました。「せいじ(精二?)」の墓石は、台東区元浅草3丁目にある了源寺にありましたが、昭和の終わり頃に甥たちによって、永代供養が行われ、同寺に合葬されたそうです。