3代忠次妻

「犬塚忠次」の妻は、石川右馬允康正の娘です。一旦、松平周防守康親の養女となってから、忠次に嫁いでいます。

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石川右馬允康正とは、石川数政の父親です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%95%B0%E6%AD%A3

以下は、井伊家家臣、犬塚求之介正長のご子孫の方からお聞きした内容です。
犬塚忠次の正室は、松平周防守康親女(養女)で、実は石川右馬允康正の娘です。石川家は、石川清兼⇒康正⇒数正(徳川草創期の筆頭家老)と続きます。


忠次正室の母は、康正の側室である三河國東蔵前村の天神社社人加茂彦九郎の娘です。康正との間に5人の娘を設けた後、康正の死後「東照宮の御側ちかくにつかえたてまつり、其のちおほせによりて松平周防守康親にあたえらる」。 その時(1568年)、妊娠三ヶ月であったといわれ『証拠に「信国の小脇差」を添えられ下賜された』 ということです。その後、男子を出産し、その子が二代目松平康重となりました。 また康親に男子はできませんでしたが、実の娘が一人おり「井伊直政」の正室となります。


石川数正(1533~1593)と犬塚平右衛門忠次(1557~1613)の年齢を考えると、石川右馬允康正の娘(忠次正室)は、数正の妹と考えられ、資料では石川右馬允康正と加茂氏の娘の次女と記されています。犬塚忠次の正室は「赤羽殿」と呼ばれていました(松井家譜)。法名は 「称讃院殿釋尼妙慶大姉」です(松井松平家御家譜)。卒年は 「寛永六年(1629)六月十九日」です(松井家譜・松井松平家御家譜)。享年・葬干地 は共に不詳ですが、享年は69歳前後と考えられます。

石川家、犬塚家、松井松平家、徳川家、井伊家の相関家系図は、こちらです。