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善仁寺の歴史とご住職「青山家」の家系

善仁寺の歴史とご住職「青山家」の家系

犬塚家の菩提寺、善仁寺には、判明しているだけでも犬塚家に所縁のある墓石は24基あります。その中で一番古い墓石は、十三歳で徳川秀忠に小姓として仕えた「犬塚重世」(1589~1655年、書院番、御膳奉行)です。犬塚家が、善仁寺を菩提寺とした経緯を調べようと思い、ご住職に相談したところ、善仁寺や檀家に関する史料は戦災で焼失し、ご住職の家系「青山家」についても僅かな伝承があるだけとお聞きしました。そこで、改めて、善仁寺の歴史とご住職の「青山家」の家系に関して調べてみました。

既に知られている通り、善仁寺は安和2年(969年)に真言宗の寺院「福住院」として創立されました。その後、鎌倉幕府で北條氏による執権政治が行われていた1230年頃、浄土真宗の開祖である「親鸞聖人」が善仁寺に立ち寄ることがありました。当時の住職「釋賢徴」は、親鸞聖人との出会いを縁として、浄土真宗に改宗したと伝わっています。その後、いつの頃か不明ですが、善仁寺は廃寺となっていました。

【小石川区勢総覧】(東京輿論新聞社, 昭和9)には、次の記述があります。

「善仁寺、久堅町百十三番地にあり、石川山と號す、真宗東本願寺の末寺である。往古は真言宗であったが、正保の頃 乗満寺といふ寺 小日向築土邊にあり、廃寺となって居たのを興して此處に移し、善仁寺と改称したのであると傳へらる。本尊は阿弥陀佛で、安和二年の建立にかかり、開基は青山賢祥和尚。現住職は青山玄静師である。」

また、【礫川要覧】(小石川新聞社, 明43.10)には、次のような記述もあります。

「久堅町百十三番地に在り、石川山と號す、真宗東本願寺末なり、小石川志料に寺傳を載せて云、往古は真言宗也、正保の頃 乗満寺といふ寺 小日向築土に在り、三州より移りし寺なり。此頃 當寺廃寺にてありしが、乗満寺 今の極楽水に来て廃寺を興し、今迄の寺號は浅草の乗満寺に傳へり。故に當寺 本尊等 皆 もとの乗満寺什物なり、開山は青山氏にて青山に在りしが断家となりしと。」

上記の史料から善仁寺は、一時、廃寺になったが、正保(1644~1648)頃に三河(三州)から移って来た「乗満寺」によって再興され、現在の石川山 善仁寺を開いた初代のご住職は、現在の青山の地に屋敷があった青山家の出身で、青山賢祥和尚であることがわかります。

【浄土宗大年表】に「延宝7年、正月是月 東本願寺末 江戸善仁寺、光明寺本末七箇寺、西本願寺末となる。(大谷本願寺通紀三)」と記述されているので、善仁寺が再興後、東本願寺末になったのは、延宝7年(1679)なのだと思います。また、これを裏付ける史料として、【歴史研究報告(11)江戸時代における真宗と武士】で紹介されている【武家御門下御直衆并家中用人役御門下帳】には、「乗満寺門徒 千石 御書院番 犬塚平右衛門殿」という記述があります。この「犬塚平右衛門殿」とは、明暦元年(1655)に亡くなった「犬塚重世」のことを指すものと思います。彼の墓石は、善仁寺に現存する犬塚家所縁の最古の墓石です。これらのことから、彼が善仁寺の門徒になった頃は、未だ善仁寺ではなく、満寺であったのではないかと推測できます。

少々本論からそれますが、これまで、ずっと、なぜ、一番活躍した「犬塚忠次」の墓が善仁寺にないのか? なぜ、家を継いだ重世は、父親である忠次を善仁寺に葬らなかったのか?と疑問に思っていましたが、今回の調査で、その謎も解けた気がします。なぜなら、忠次が亡くなったのは慶長18年(1613)なので、その当時、善仁寺は廃寺だったのです。

乗満寺について

【宗教大観】や【東京市史稿市街篇第三】によれば、加賀國江沼郡額田荘神宿村にあった、真言宗の「林松寺」の住職「道祐」が、蓮如上人に帰依して改宗し浄土真宗の門末になったようです。その後、林松寺は、大坂、山城国伏見清水谷に転じ、天正年間に跡継ぎが無かった時、「野條(粂)受閑」という徳川家康の御抱え医師が「明泉法師」を推挙して中興したようです。明泉法師は、討ち死にした尾張國古田荘、川口城主「水谷縫殿頭」の嫡男であると記述されています。野條(粂)受閑と明泉法師は、寺を野條(粂)山 林松寺と号し、摂州東成郡生玉に草創し、その後、城州伏見、駿州府、元和元年に江戸車坂に移転したそうです。そして、四世「受学」の時、乗満寺と改称したそうです。乗満寺も善仁寺と同じ東本願寺大谷派ですが、今迄のところ、それ以上の接点は見つかっていません。

善仁寺と青山家のつながり

前述した通り【小石川区勢総覧】には、再興された善仁寺の初代住職は、「青山賢祥和尚」と記述があり、また、【東京名所図会】【礫川要覧】【小石川区勢総覧】には、青山賢祥和尚の家系は、青山の地に在った「青山家」であったが断家したと記述があります。これらの史料から得た「青山に在った青山氏」「断絶した青山氏」などをキーワードにして、国立国会図書館デジタルアーカイブやGoogleで検索したところ、【武蔵(日本国誌資料叢書)】と【大日本地誌体系】の史料が見つかりました。

内容は、【武蔵】には「青山氏」、【大日本地誌体系】には、「舊家者 五郎右衛門」(舊家者とは旧家(きゅうか)のことで、由緒ある社会的地位の高い家を指します。)と題して、【武蔵国風土記稿】の内容を次のように紹介しています。

「家傅に(よる)に 豊島郡牛込分本大久保村 天正十九年玉薬同心五十人の給地となりし時は、百姓 長兵衛 七右衛門 久左衛門 三四郎 等 (わず)に四人のみなり。當時 宅地及水陸の田は 今の尾張殿戸山別業(別荘)の内にて 敬公(初代尾張藩主徳川義直)別業を賜はり給ひし頃、四人皆砂利場(地名)に移住すと云う。五郎右衛門が先祖 長兵衛 子なかりしにより 養子を迎ふ。是も後に長兵衛と改む。此人實は青山常陸介忠成が落胤なりと系圖に載す。又 家傳に忠成を伯耆守忠俊が嫡子と云ひ、又 長兵衛を忠俊が丹波國笹山城に蟄居せし間の落胤の如く記す。按に寛永譜に(よ)れば忠成 慶長十八年二月卒するに至る。罪(こうむ)りしと見えず。忠俊は元和九年御氣色を蒙りて 房州大多喜城に移され、後又 相模國高座郡今泉に退居せし事を載す。然れば忠俊が落胤と云もの實を得たりとせん(や)。後の長兵衛が長子は 小石川善仁寺の養子となり、二男 五郎右衛門 父の遺跡を(つい)てより、數代相続して子孫 今の五郎右衛門に至るまで青山を氏とす。元祖の長兵衛が姓氏を知らざる故ならん。其餘三人の子孫は今聞ゆることなし。」

次に、「青山忠俊」について調べてみました。寛政重修諸家譜を見ると、青山忠俊の青山家は、代々徳川家に仕えた譜代の家臣の家柄です。そして青山忠俊は、家康、秀忠に重く用いられ、後に将軍になる家光の傅役や徳川幕府の老中も務めました。しかし、元和9年(1623)45歳の時に将軍となった家光の勘気に触れ、老中を免職され5万5千石から2万石に減転封となり、さらに寛政2年(1625)には、徐封になって蟄居しました。寛政9年(1632)に許され再出仕の要請がありましたが、それを断わって寛永20年(1643)に死去しています。正に【武蔵国風土記稿】の記述と合致します。

さらに、忠俊には、早世した男子を除いて、宗俊、宗佑、孫四郎、新兵衛、五郎兵衛、藤九郎、忠栄、正俊の8名の男子がいました。宗俊は、その後5万石の大名になり、また宗佑も御書院番になりました。したがって、大久保村の旧家、長兵衛に養子に迎えられた可能性のあるのは、孫四郎、新兵衛、五郎兵衛、藤九郎、忠栄、正俊 6名ということになります。忠俊の蟄居後に生まれたのは、忠栄と正俊なのですが、ご覧の通り二人とも元服し烏帽子名となっているので、養子に出た可能性は低く候補からはずれます。残りは、孫四郎、新兵衛、五郎兵衛、藤九郎 の4人に絞られます。善仁寺が再興された頃(1644~1648)の彼ら4人の年齢は、彼らの兄、宗佑の誕生が1608年生れ、そして彼らの弟、忠栄が1623年生れなので、概ね35歳から20歳ぐらいであったのではないかと推定できます。

長兵衛家に養子に行き、結婚し、善仁寺に養子に行く長男(のちの青山賢祥和尚)をもうけたという点を考慮すると、その養子は、4人の中でも若い五郎兵衛か藤九郎であった可能性が高いと思います。また、その養子が、長兵衛家で当初「五郎右衛門」と称していたとの記述があるので、「五郎」繋がりで、養子に迎えられたのは「五郎兵衛」だったかも知れません。

以上の調査の結果、青山忠俊の男子である青山五郎兵衛が、大久保村の旧家、長兵衛家に養子に迎えられ、その後、青山五郎兵衛の長子が、乗満寺の二代目住職「受専」(1652年没)或いは三代目住職「受清」のもとに養子に行き、その成長を待ち、延宝7年(1679)に石川山 開山の「青山賢祥和尚」になったと推測できます。


善仁寺、乗満寺、青山忠俊、長兵衛に関して、年表を作って下記の通り比較検討してみました。乗満寺が元和元年(1615)に江戸車坂(浅草)に移転したという史料がありますが、一方で、正保の頃(1644~1648)に廃寺を再興したという史料と合致しないことがわかります。元和6年(1620)頃に青山五郎兵衛が長兵衛家に養子に行き、また、その長子(のちの青山賢祥)が、寛永20年(1643)頃に善仁寺に養子に行き、そして、延宝7年(1679)に青山賢祥が開祖となって石川山 善仁寺 が東本願寺の末寺になったとすると、全体がきれいにおさまりました。


善仁寺-調査年表


善仁寺と「犬塚家」の関係

善仁寺と青山家との関係がほぼ明らかになりましたが、次に善仁寺と犬塚家との関係を考えてみました。この関係を明らかにする史料は、未だ見つかりませんが、笠原一男氏が書かれた【歴史研究報告(11)江戸時代における真宗と武士】を読むと、戦国時代と江戸時代における浄土真宗と武士の関係を整理して理解することが出来ます。

(以下要約)

真宗の布教の対象は、主に農民層で、真宗の諸派は、農民の現世における生活の利幅を与えるような説教を生み出し、次々と信者数を増やした。やがて戦国時代の初期に蓮如が現れ、真宗諸派の門徒を本願寺派の組織に吸収するようになると、本願寺教団の勢力は強大化、支配者であった武士群の驚異になった。武士群は、当初、真宗門徒の弾圧にのりだすが、やがて弾圧するよりも彼ら自身も真宗教団の中に身を投じ、門徒の一員となって自己の社会的政治的地位を守ることにした。その結果、農民の反抗は、武士を指導者として村・郷・一国の支配権をめぐる政治的戦いへと変貌した。一方、元来、真宗は武士を仏敵とし、本願寺教団も武士群を迎え入れれば政権争いに巻き込まれ、自らの布教や勢力拡大にマイナスの影響を及ぼすと考え、自分の領国支配の安全を計ろうとしている武士群の教団加入を阻止していた。結局、武士を迎え入れた本願寺教団は、戦国終末期の石山戦争へと突き進み、本願寺の運命を危機に追い込んだ。

やがて、徳川幕府による幕藩体制が確立されると、武士が社会的政治的地位を維持する第一条件は、幕藩の家臣団に編入されることになり、武士が本願寺教徒であることは、不利な条件にすらなった。よって、本願寺教団の勢力を利用するために入信していた武士群は、その利用価値が無くなると悟ると、急速に離脱した。さらにまた、幕藩体制下では兵農分離が徹底され、中世的な武士(在地武士)と農民が一つの寺院に結ばれて講を形成することは許されなくなった。

しかし、幕藩の組織に組み入れられた後も、少数ながら武士門徒として本願寺教団と関係を持ち続けた武士がいた。彼らは、それぞれの幕藩に仕官し、また本願寺門徒として師檀関係を保ち続けていた。ただし、彼らと本願寺教団との関係は、所属する檀那寺が普請する場合の奉加に応じるといった関係にすぎなかった。

一方、幕藩体制下の真宗寺院は、自分の檀徒に武士を持つということを、むしろ誇りと感じていた。かつて、戦国期の武士が保身のために真宗教団の一員となったのと、逆の立場に変わっていた。真宗寺院は、彼らとの縁をたぐって、かつての武士門徒を自分の門徒としてつなぎ留めておくことに努力を払うようになった。したがって、一つの寺院で一人でも武家門徒があれば、本山に申告して、その名を登録するようになった。その史料のひとつが、紹介する【武家御門下御直衆并家中用人役御門下帳】である。

江戸時代の武士と真宗本願寺派との関係を示す史料で現存するものは、極めて少ないが、大谷大学図書館に所蔵されている「栗津文書」所収の【武家御門下御直衆并家中用人役御門下帳】は、江戸時代の真宗と武士の関係を示す興味深い史料である。

(要約おわり)

先述しましたが、【武家御門下御直衆并家中用人役御門下帳】の中に、「乗満寺門徒 千石 御書院番 犬塚平右衛門殿」という記述があります。廃寺であった善仁寺の前身である乗満寺が、寺を再興した正保の頃(1644~1648)には、既に幕藩体制は確立していますので、笠原氏の説を参考にすると、徳川幕府の旗本である犬塚平右衛門(重世)が、再興されたばかりの乗満寺(善仁寺の前身)を選び、その門徒になったのは、実に興味深いところです。

重世の祖父、「犬塚七蔵正忠」は、三河の一向一揆に加わり家康に歯向かったほどの信仰心の厚い門徒であったから、重世もその影響を受けていたのか? 或いは、初代の住職、青山賢祥 や青山家と何らかの関係があったのか? 或いは、豊島郡大久保村の旧家 長兵衛 と何らかの関係があったのか?想像は尽きませんが、いずれにしても、

犬塚家が、乗満寺によって再興された善仁寺の最初の武士門徒か、或いは、かなり早い段階で武士門徒になったことは、確かなようです。

最後に

昭和初期に名家の墳墓を保存顕彰する目的で結成され、10年余り活動していた東京名墓顕彰会という会がありました。そして、この会が昭和9年5月15日に発行した【掃苔】第八回掃苔會記事(矢吹葉人)に善仁寺と犬塚家のことが記載されていましたので紹介します。

「善仁寺に茶人野田酔翁墓、儒者同剛斎墓を弔った。茶人らしい好い墓碑である。聞けば別家の子孫が之を合葬したい意見を有してゐるよしであるが、僅か小さな墓碑のことだから何とか保存がして欲しい。其他碑文のある旗本犬塚氏墓や新しい所では書家大倉雨村墓もある。」

此処に記述されている通り、犬塚家代々の墓石には碑文が彫られているものがあります。特に、重世や忠世の墓石には、一面に故人や家系に関する情報が彫られています。祖先が、犬塚家の由緒を子々孫々に伝えるための配慮を深く感じます。もし、これらの碑文が無かったなら、祖先の墓石は史跡となることなく無縁墓となり、現代まで残らなかったのではないかと思います。そして、我々の由緒も失われたことでしょう。戦災で焼失した善仁寺の本堂は、この本が発行された昭和9年には、未だ健在でしたので、多くの史料を見ることができたことと思います。

以上

参考文献:

【小石川区勢総覧】東京輿論新聞社 編『小石川区勢総覧』,東京輿論新聞社,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション 30ページ https://dl.ndl.go.jp/pid/1464957

【礫川要覧】小石川新聞社 編『礫川要覧』,小石川新聞社,明43.10. 国立国会図書館デジタルコレクション 142ページ https://dl.ndl.go.jp/pid/764460

【浄土宗大年表】藤本了泰 著『浄土宗大年表』,大東出版社,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション 489ページ https://dl.ndl.go.jp/pid/1683193

【歴史研究報告(11)江戸時代における真宗と武士】東京大学教養学部歴史学研究室 [編]『歴史学研究報告』(11),東京大学教養学部歴史学研究室,1964-07. 国立国会図書館デジタルコレクション 138ページ https://dl.ndl.go.jp/pid/2298733

【宗教大観】読売新聞社 編『宗教大観』第四卷,読売新聞社,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション 52ページ https://dl.ndl.go.jp/pid/1912683

【東京市史稿市街篇第三】東京市 編『東京市史稿』市街篇第三,東京市,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション 746ページ  https://dl.ndl.go.jp/pid/3450782

【東京名所図会】『東京名所図会』[第9] (小石川区之部),睦書房,1969. 国立国会図書館デジタルコレクション 132ページ https://dl.ndl.go.jp/pid/9641006

【武蔵】太田亮 著『武蔵』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション 612ページ https://dl.ndl.go.jp/pid/982142

【大日本地誌体系】蘆田伊人 編『大日本地誌大系』第1 第1冊 新編武蔵国風土記稿壹,雄山閣,昭和9.  国立国会図書館デジタルコレクション 241ページ https://dl.ndl.go.jp/pid/1051345%20

【『掃苔』3(5)】東京名墓顕彰会,1934-05. 国立国会図書館デジタルコレクション 150ページ https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2236734

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