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「忠次」の花押

「犬塚平右衛門忠次」の花押が、「参遠古文書覚書」(内閣文庫)の[松平甚助指出古文書]の中から彦根犬塚家のご子孫によって発見されました。未だ、墓所すら明らかになっていない、我が家の英雄「忠次」を感じることができる、貴重な史料の一つです。

日本歴史(日本歴史学会編集)1990年8月号に掲載された曽根勇二氏著「片桐且元と大久保長安の代官について」によると、初期(慶長期)の徳川政権において家康は、譜代の家臣に加え、行政能力のある大久保長安などの新たな家臣、そればかりでなく片桐且元のような豊臣系の大名までも、一国規模の支配権を持つ国奉行として採用し、検地や年貢米の管理を行っていました。

「忠次」の花押が発見された古文書は、御普請奉行であった「忠次」が、大久保長安と同じように三河の代官であった「念誓」松平甚助(親宅)に宛てた次のような指図書でした。

【書き下し文】

尚々御扶持米の儀、彦坂九兵手前者、京都に而員数承候故、大方おし払申候、とうい・貴様御手前ハ、同前ニ割符申付候、少出入之儀者、来月分にて相渡し可申候、以上、米弐千石余、栗笠へ御届候由被仰越候、先日とうゐ其様子早被仰越候故、大形出し申候歟と存候、尚々相残衆へ出し可申候、少も疎意儀存間敷候、相応之御用等御座候者可被仰下候、恐々謹言

【現代語訳】

なお、御扶持米の件、彦坂九兵と私は、京都にて(御扶持米)を数えるので、大方の(米の)納付を申つけます。東意と貴方には、前と同じように割符を申しつけます。(納付の)少ない分は、来月分と一緒に引き渡されるべきであると申し上げます。以上 米弐千石余りは、栗笠へ届けるよう命じられています。先日、命じられてから東意の行動は早く、大形(の米を)出すだろうと思います。なので、残り方々へも出すように申しつけます。少しも疎意に思われませんように。皆等しく命ぜられた御用に応じています。恐れながら、謹んで申し上げます。

この古文書には「忠次」が、どのような地位にあったのか書かれていませんが、同じく「参遠古文書覚書」(内閣文庫)に納めされている[成瀬一斎外二名連署書状](板倉伊賀守勝重、日下部兵右衛門、成瀬吉右衛門一斎らが連名で念清(誓)、東意、菅沼伊賀に送った手紙)には次のように書かれています。

【書き下し文】

猶々七月朔日ゟ、出申候間、其以前に無御油断、津屋まて御届可有候、急度申入候、仍佐和山御普請衆ふちに出申候間、刁ノ年残米有次第、船ちん船にん、津屋迄可有御届候、七月朔日より出申候間、其以前に参着候様に、御油断有間敷候、御ふちで申走候時は、御普請奉行犬塚平右衛門・山本五左衛門殿うら判にて可有御渡候、恐々謹言、

【現代語訳】

なお、申し出の通り、7月1日より、それ以前に(到着するよう)間違いがあってはなりません。津屋まで(米を)送るべきこと、確かに申しつけます、なお、佐和山御普請衆の御ふちの申し出がありますので、寅の年の残りの米があるわけなので、海路にて、津屋まで(米を)送るべきこと、申し出の通り、7月1日より、それ以前に到着するように間違があってはなりません、御ふちで申し出がありました時は、御普請奉行の犬塚平右衛門と山本五左衛門殿の署名でお渡しすべきこと、恐れながら謹んで申し上げます。

この古文書によって「忠次」の地位が御普請奉行であったことがわかります。曽根氏によれば、「忠次」が伏見城の普請奉行として「大久保長安」らとその扶持米を管理していたことは、讃岐の豊臣蔵入地算用状(慶長九年三月二十八日付)でも確認できる、そうです。「忠次」は、武勇に秀でただけでなく、行政能力にも優れた才能を発揮していたことが窺えます。

その「忠次」の花押は、コチラです。


花押部分を拡大したモノがコチラです。

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