父系(男系)の血筋を遡ると、どのような祖先に繋がるのか調べてみました。
九代目の当主「犬塚忠休」は、「堀川広益」(従四位上・侍従、兵部大輔)の五男として生まれ、堀川家から犬塚家に養子に来ました。また、父、堀川広益は、清華家(せいがけ)である久我家当主「久我通名(みちな)」の次男として生まれました。(清華家は、代々、太政大臣などの朝廷の要職に就きます。)
次男である堀川広益は、堀川姓を名乗り徳川幕府(家宣)の御側高家に就任しました。その後、堀川家は有馬家と改姓し代々高家として徳川幕府に仕えます。
一方、長男は、同じ清華家の「広幡家」を継ぎ「広幡豊忠」となり、その後、広幡豊忠の娘は、「正親町実連(おおぎまちさねつら)」に嫁ぎ、血筋は現在の皇室に繋がります。
ちなみに、久我家の当主は、通名から通名の弟「通誠(みちとも)」に引き継がれます。
さて、忠休から父系(男系)の血筋を ウキペディア を使って辿ってみました。その結果を纏めたものが下記の系図です。
ご覧の通り、645年に起きた「大化の改新」で我々の祖先「中臣鎌足」が「蘇我入鹿」に返り討ちになっていたら、私は存在しなかったということになりました。
系図上で、㉘「藤原忠通」と㉗「近衛基実」で姓が変わるのは、この時期から藤原北家の嫡流である基実を「近衛」と呼び、また、基実の弟「兼実」を「九条」と呼ぶようになるからです。後に、近衛家から「鷹司家」が分かれ、九条から「二条」と「一条」が分かれ、この五家が五摂家となります。
⑫「近衛尚通」から⑬「久我晴通」となる理由は、晴通の前の当主「久我邦通(くにみち)」(1507-1532)が25歳で急逝し世継ぎが居なかったため、⑫近衛尚通の子である⑬久我晴通が久我家に養子に入ったためです。
我々の曾祖父「犬塚忠親」や「犬塚亀」から45代遡ると、中臣鎌足につながり大変光栄なことと思います。
しかし、ある一人は、その父とその母の二人から生まれるので、この考えを基に45代前の現代人の祖先の数を計算すると(2の45乗)、理論上、35兆人の祖先が居たことになります。一方で、奈良時代でさえ、日本の人口は、500万人程度だったと言われているので計算が全く合いません。
なぜ合わないか、それは、同じ祖先を持つ人同士が結婚しているからです。というわけで、現代人のほぼすべての人は、中臣鎌足と血縁関係にあるということです。つまり、「中臣鎌足が、蘇我入鹿に返り討ちになっていたら、私は存在しなかった」と述べましたが、実際は、そのような事になっていたら現代人の殆どは存在しないということになります。
何れにせよ、徳川幕府の700石(時に1000石)の旗本で、現在も墓石が存在し、家系が凡そ500年遡れ、また忠休以降の血筋を史料に基づいて飛鳥時代まで遡れることは、貴重なことだと思います。
これは、徳川幕府が寛政重修諸家譜を編纂する時期に、たまたま養子に来られた忠休に犬塚家の由緒を提出して頂けた、そして忠親以降の本家の方々や菩提寺に祖先のお墓を大切に護って頂けたお陰だと思います、感謝。