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忠次が建てた二条城

白峰旬著「近世城郭史の基礎的研究」に次のような記述があります。

二条城(慶長六年十二月~同十一年)1601年~1604年

二条城は、慶長六年十二月から「関西の諸大名」に命じて普請が開始され、天守・衝 ・門などの作事は翌七年~同十一年まで続けられた。公儀普請奉行としては大塚忠次が派遣されたが、普請助役大名として具体的に氏名が判明するのは、分部光信のみである。作事については、「京二條御城之御材木御勘定帳」によれば、京都所司代板倉勝重のもと、徳川家御大工の中井正清・杉本仁左衛門・山上久左衛門が資材を統括していたことがわかる。よって、板倉勝重は公儀作事奉行としての立場にあったものと思われる。また、中井正清は同十~十一年の二条城作事に大和の大工を動員した点が指摘されているが、これ以後、江戸城・駿府城・名古屋城など幕府にとって重要な拠点城郭の作事に携わっているので、正清が公儀作事に参加した初期の事例として注目される。なお、二条城は、慶長七年頃まで「新御屋舗」とか「二条御所」と呼ばれていたことからもわかるように、当初は家康の京都屋敷的存在であったが、同八年の家康将軍任官後は伏見城とともに幕府の京都における拠点として位置付けられた。

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