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犬塚姓ならびに家紋に関する伝説

犬塚姓とその家紋に関する伝説についてお話いたします。

1.犬塚平右衛門家に伝わる『犬追物』の伝説

一つ目は、「犬塚平右衛門先祖書」に書かれている伝説です。犬塚忠休によって1700年後半に書かれた「犬塚平右衛門先祖書」の冒頭部分で家紋伝承を次のように記しています。

往古有 上帝御脳之時犬塚某有 勅而刻修犬追物之射術干時御脳平癒仍而有 御感則以桐葉及鳳凰取縫之御衣賜犬塚某是始而以鳳凰与桐葉為家紋云々 但無旧記年代明證咋當家ニ申傳迄

【以下現代語訳】

遥か昔、天皇様に大変ご気分のすぐれない時があり、(御慰めの為に)犬追物の射術を披露するよう犬塚某に勅命がございまして、犬追物の射術をご披露しましたところ、たちまちにお悩みは平癒しました。天皇様は、大変に(その射術に)感銘を受けられ、褒美として「桐の葉と鳳凰の模様が刺繍された御衣」を(犬塚某に)くださり、犬塚某は、これより「鳳凰と桐の葉」を家紋としました。ただし、その年代を明らかにする史料はなく当家による言い伝えです。

この伝承は江戸時代の初めに、彦根犬塚家元祖 犬塚求之介正長の舅である松居武太夫清易(1550頃?~1626)が、江戸において犬塚平右衛門(忠次と思われる)と対談した際(1610年に隠居しているので、それ以前のことと思われる)に、犬塚家の紋章(丸に鳳字)が珍しくその由来を尋ねた時、「我家往昔射術之褒賞として賜ふ所の御衣乃紋(アヤトリ)を以て衣服の紋に定むるところなり」と平右衛門が語ったとされる史料とも合致するため、家紋(丸に鳳の字)の伝承は古(いにしえ)より大変重要なものとして、しっかりと犬塚家代々に伝えられて来たように思われます。

当家の祖先である小山五郎左衛門尉秀政は、後醍醐天皇が隠岐に流される時、千葉介貞胤や佐々木道誉などと共に五百余騎を従え帝を警護し隠岐まで供奉しました。途中、雲清寺(現岡山県津山市にあった寺)において、随従していた帝の近臣、千種忠顕より「うき旅と 思ひは果てじ 一枝の 花の情けの かかる折には」という歌を拝領しています。以来 小山五郎左衛門尉秀政は、延元元年(1336)四月の後醍醐帝「武者所一番」を務めます。

太平記には、正平7年(1356)5月、南朝 後村上天皇が幕府軍に追われて賀名生(あのう)に退いた際にも、宇都宮公綱と共にこれに従った人物として「小山五郎」が描かれています。これがもし秀政を指すとすれば、同人は足利方の勝利が確定した後も、なお南朝方にとどまっていたことになり小山氏の盛衰に繋がったと日本史学者の松本一夫氏は語っています。

このようなことから、「犬塚平右衛門先祖書」の家紋に関する伝説にある「上帝」は年代的に見て後醍醐帝の次の代の後村上天皇の代の出来事ではないかと想像します。

そして、小山五郎左衛門尉秀政やその子孫である犬塚家の祖先は、古くから南朝側に奉仕し、明徳3年(1392年)南北合一後もなおも吉野に隠れ留まる南朝側と行動を共にしていたとすると、山田庵鹿驚が発見した「犬塚権兵衛所持系図」に登場する「犬塚太郎太夫政長」が、応永31年(1424年)信濃国大河原で起きた浪合合戦で後醍醐天皇の孫である尹良親王と共に戦い戦死したという記述にも合致します。

一介の地方武士であった犬塚家の祖先が天皇から「犬追い物を披露せよ!」と勅を賜ったなどという伝説を容易に信じることはできませんが、南朝の劣勢に頭を悩ませる天皇と長年南朝一筋で奉仕していた小山五郎左衛門尉秀政やその子孫である犬塚家の祖先との距離は意外にも非常に近く、伝説のような状況はあったのかも知れません。

さらにまた、小山五郎左衛門尉秀政の子「政泰」が「都賀郡の犬塚郷」近辺を領有していたことが「犬塚姓」の起こりであるという説にも繋がり彷彿とされる事象です。

犬塚平右衛門先祖書には、幕の紋は「丸のうちに鳳の字」、家の紋は「丸のうちに鳳の字」、替紋は「丸の内に五七の桐花斗」と記されています。

2.犬塚甚左衛門(又内)家に伝わる『家紋』伝説
二つ目は、「犬塚甚左衛門」家の伝説です。「犬塚平右衛門」家と同じように三河を根拠地としていた「犬塚甚左衛門」を先祖とする犬塚家の家紋伝承は、表現の差異はあっても概ね伝える内容は同じです。戦国史研究家の小林輝久彦氏が三河新報に寄稿された『茶臼山城主考』というコラムで纏められておりますのでご紹介致します。ただし、同じ「犬塚甚左衛門」系でも紀州犬塚氏は「犬塚之苗字 家之紋 桐ニ鳳凰ハ、先祖従 白河法皇被下候旨申傳候」と「称千葉流犬塚氏」に近い伝承を伝えています。

ー【茶臼山城主考】によって紹介された3つの伝説ー

(中略)この茶臼山城主大高弾正について「岡崎東泉記」は大意以下のように記す(原漢文)。「東城茶臼山の城の又の名を大蔵の城というがこの城を『二ノ宮』が攻めた時に山城なので山際まで攻め寄せたところ、城から夥しい数の大石を落し掛けたために諸兵は退散を余儀なくされた。そこで『二ノ宮』の家臣で大岡小次郎という者が城に忍び入り、遂に城主の大高弾正という者を討ち取ったが自分も戦死した。このとき『二ノ宮』は小次郎の子等に犬塚の姓を授け、今も江原村の権六屋敷に犬塚という塚がある。小次郎の子等は長じて江原丹波守の組子となり、惣領を又内、次男を善兵衛といったが、主君の丹波守は桶狭間合戦で戦死した。又内の子孫は現在酒井雅樂頭(忠清)家の家臣となっている」(後略)

(中略)犬塚という塚はいまでも西尾市江原町にあり、『三和村誌』(昭和九年刊)はこれについて「犬塚の芯無し椿」の伝説を伝えている。「此の地出身犬勝氏の由緒書に拠れば、三河国旗豆郡江原の地士に壇道元と称する者あり。宮方三河へ御下向、東条の吉良氏と御取合の際、道元宮方の手に附す。吉良家に大高弾正と称する大剛の士あり、道元宮の命に依て弾正に詐(いつわ)り仕ふ。宮弾正と合戦の砌(みぎり)、道元弾正が床几(しょうぎ)に懸(かか)りたるを狙ふて討ち、従士と戦ふて其場に死す。里人道元を大忠士とし塚を築いて葬る、道元犬となって敵地に入り、剛将弾正を討ち取りたるが故にその塚を呼んで犬塚と名付く。後年宮江原に鷹を放ち給ひし時、塚に供物多きを見て塚の由来を尋(たず)ね給ふ。里人事の由を告げ参らせしに、宮御感(ぎょうかん)の余り道元が遺児道勇、道宮を召し、宮家の御紋章より桐の葉を捨てて花のみを家紋に給ふ。以後道元が二児犬塚を名乗り桐花を家紋とすと。今尚ほ本村に犬塚称する者家紋に桐花を用ふ。」

類似の伝説を『西尾市史 現代五』(昭和五十五年刊)も第4伝統文化の項に「犬塚の芯無し椿」として載せている。文中には道元姓を壇(ダン)とするが、同じ『三和村誌』第七節本村諸侍の部に犬塚氏の姓の侍を載せ「犬塚甚左衛門 江原村」の項に「旧姓大岡氏始め左近右衛門道勇と号す」とする。道勇は道元の子だから、道元の姓も大岡であったろう。そうすると「岡崎東泉記」の大岡小次郎と道元は同一人物ということになる。(後略)

(中略)そして神尾次郎兵衛と犬塚久右衛門は、犬塚の由来ついて別の異説を幕府に報告している。大意は犬塚氏の本性は熊野の鈴木氏で、源義経の家臣であったのだが、父親を追って京都から奥州に赴いている途中で、父親が戦死したことを知り、現地の三河に土着した。そして京都の公方家の家臣となった。公方家が鷹狩に出たときに随行し、公方の命令で犬を使って鵜の巣から鵜をうまく掻き出した。公方は大変喜び、丁度弁当をつかった場所にあった塚と犬を象り、犬塚の姓を与え、また塚の上に植生していた桐の花を家紋として与えた。そして桐の花には鳳凰が宿るという伝説から、鳳凰も家紋の中に挿入することとした。こうして家紋として丸の内に桐の花三本と鳳凰を描いたが、後世になり、鳳凰を描くのには狭いという理由で、常紋には桐の花のみを描き、家紋を大きく描くことの出来る陣幕の紋にはいままでどおり桐の花三本と鳳凰二羽を描くこととした(譜帳余禄・神尾次郎兵衛先祖書)というものである。(後略)

(中略)紀州徳川家家臣となった犬塚甚左衛門家では先祖が後白河法皇(1181年~1185年治世)の北面の武士を務めているときに、院から賜ったものであるとする(南紀徳川史・名臣伝)。先祖が源義経の家臣であったというのも、北面の武士であったというのも、伝説であり史実ではないと解してよいだろう。しかし犬塚の賜姓の由来は、上記『三和村誌』の伝説よりも古い形であると考えられる。なぜならば、『三和村誌』の説明では、犬塚の字句に基づく賜姓の由来が茶臼山城主を討ち取る武功と結びつかないからである。つまり、城に忍んで敵将を討つ行為と「犬となる」ということが合理的な説明になっていない。なお前掲『西尾市史 現代五』は「道元は弾正が床几に寄りかかっているところへ、犬に化けて近づき、これを討ち取った。」とするがこうなると既に伝説ではなく昔話となってしまう。(後略)

3.(称千葉支流)犬塚覺右衛門(胤則)家の『家紋伝承』

三つ目は「犬塚覺右衛門(胤則)」家の伝説です。当家は「犬塚家伝書」の中で家紋伝承を次のように記しています。

鳥羽院御宇久寿元甲戌年(1154)五月ヨリ御悩マシマス

安部泰成占テ云、下野国那須野之狐所為之ト占

同二乙亥年(1155)三浦介・上総介ニ可狩取旨蒙

勅命之処、那須野之狐飛行自在ニシテ

狩取ベシトモミエズ、犬追物ノ祭シテ弓前ヲ以

狐ヲ射取上洛 御感之餘リ

勅シテ那須野之狩之時之装束ニテ

院ノ御庭上、真似テ仕ベシトテ赤犬一匹ヲ

賜、両介是ヲ射ル

叡感不斜、是犬追物之タメシ也、狐之腹中ニ

金壺有リ、内ニ仏舎利アリ

院ヘ上ル狐ノ額ニ白玉有リ、三浦介ニ賜ル、

尾之先ニ針二ツ有、一ツハ赤シ、上総介ニ賜ル、

狐ヲ宇治ノ法蔵ニ納、院前ニテ射殺ス赤犬、

科モナキ犬ヲ射殺ス事不便也トテ、大須賀四郎胤信

奉願則賜之、

三河国幡豆郡領地也ニ赤犬ヲ塚ニ築キ供養回向ス、

其翌年保元元丙子年(1156)正月廿日

後白川法皇ヨリ大塚之庄ヲ賜、桐鳳凰之紋、蒙

勅免依之千葉氏之子孫三河国幡豆郡住スル者

犬塚氏ト号ス

【以下、現代語訳】

鳥羽院の御代の久寿元年五月より、(鳥羽法皇は)ご気分がすぐれませんでした。そこで(陰陽師の)阿部泰成に占わせたところ「下野國那須野の悪狐の仕業である」との占いが出ました。同二年に三浦介(義明)と上総介(広常)に悪狐を狩り取るように勅命が下りました。しかし那須野の狐は飛行が思いのままで、狩り取ることができませんでした。(そこで犬の尾を狐の尾に見立てて)犬追物で射術の訓練をし、ついに狐を射止め悪狐を退治することが出来、(二人は)上洛しました。(院は)お悦びのあまり、勅命を出されて「那須野で狩りをした時と同じ装束を着て院のお庭でその時をまねて赤犬を射るべし」と赤犬一匹を賜り、両介はこれを射殺しました。(院は)たいへん感心されおほめになりました。これが犬追物の先例となりました。院へ献上した、狐の腹の中には「金壺」があり、その中には「仏舎利」がはいっていました。狐の額には「白玉」があり、これは三浦介に下賜されました。尾の先には「針」が二つあり、一つは赤い針でした。これは上総介が賜りました。狐は宇治の法蔵に納められ、院前で射殺された「赤犬は何の罪もなくあわれである」と、大須賀四郎胤信(千葉常胤四男)がお願いをしてもらい受け、三河国の幡豆郡の領知に塚を築き、回向して供養してやりました。その翌年、保元元年正月二十日に、後白河法皇より「大塚の庄」を賜り、また「桐鳳凰の紋」を戴き、その使用を許可されこれより千葉氏の子孫で三河国幡豆郡に住むものは、犬塚氏と称しました。

この話は「九尾の狐」「玉藻前(たまものまえ)」の話の延長線上にあり、明らかに「九尾の狐」「玉藻前(たまものまえ)」の話の最後に犬塚家の家紋に関する記述を付け加えたものと思われます。

まとめ
上述の通り犬塚家には、犬塚平右衛門家の「犬追物」の伝説、岡崎東泉記や三和村誌の「犬塚の芯なし椿」の伝説、譜帳余禄・神尾次郎兵衛先祖書の「鵜の掻き出し」の伝説、(称千葉支流)犬塚覺右衛門(胤則)家の『家紋伝承』の伝説がありますが、小林輝久彦氏が「犬に化けて近づき討ち取ったとなると伝説ではなく昔話」とおっしゃられた通り、犬塚姓や家紋の起源を昔話から推測するのは難しいでしょうし、また、御伽噺である「九尾の狐」や「玉藻前(たまものまえ)」につなげた伝説も参考にはなりません。

以上の伝説の中で、犬塚姓の起源には一切触れず、古くから南朝方に奉仕し最後まで北朝方と戦い惣領が戦死したという背景を持つ系図を有し、劣勢に陥って戦意の低迷に思い悩んでおられた天皇に犬塚某が武芸のひとつである「犬追物」を披露し勇気づけ、お喜びになられた天皇から桐花と鳳凰の刺繍された御衣を下賜され、それを元に家紋としたと言う犬塚平右衛門先祖書の伝説が、最も合理的であり信憑性が高いと考えます。

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