江戸時代、旗本屋敷には「拝領屋敷」と「抱(かかえ)屋敷」の2つがありました。「拝領屋敷」は幕府から与えられた土地に建てられた屋敷のことで、「抱屋敷」は自ら購入した土地に建てられた屋敷のことです。犬塚家も「拝領屋敷」と「抱屋敷」を所有していました。時代と共に変わっていった屋敷の変遷とそこで暮らしたと思われる当主を纏めてみました。
桜田拝領屋敷
XXXX ~ 1603年(慶長8)11月
現在、農林水産省庁舎が建っているところに桜田拝領屋敷がありました。未だに古地図による特定ができておりませんが、相馬家の「相馬藩世紀」に次のような記録があります。
「(1602年、慶長7)十一月、江戸櫻田、御旗本犬塚平右衛門殿屋敷、御借住、今ノ御屋敷ナリ」、「(同年)十二月、蜜胤君御婚禮、此節、犬塚殿屋敷隣一色頼母御借地、今阿部氏ノ屋敷ナリ、假屋ヲ修補、御婚儀整」、「(1603年、慶長8)此年、江戸外櫻田御屋鋪ヲ将軍家康公御検地、利胤君御拝領、犬塚氏江替地ヲ給、元禄年中、綱吉公ノ御治世、御老中阿部豊後守殿、弾正少弼昌胤君の御代、家老相馬将監実名胤充ニ櫻田屋敷之儀御尋問、此節諸大名屋敷替多キ時也、權現様御縄張ニ拝領ト申傳之旨答述之、此段相馬綢胤談話」
犬塚平右衛門忠次は、1603年(慶長8)に桜田屋敷を相馬家に譲ったようです。
相馬藩世紀の該当部分はコチラからご覧になれます。また、オリジナルはコチラから閲覧できます。
一番町屋敷
1603年(慶長8)11月~1657年(明暦3)ごろ
桜田屋敷を相馬藩に譲り、田安門近くの千鳥ヶ淵に面した屋敷に移りました。犬塚家の屋敷は、約60年間ここにありました。現在、ちょうどインド大使館がある場所です。4代「重世」は生涯この屋敷で暮らしていました。千鳥ヶ淵は桜が有名ですが、この周辺に桜が植樹されたのは、明治期なので「重世」が屋敷で花見を堪能することはできなかったと思います。こちらの屋敷は「正保年中江戸絵図」などの古地図で確認することができます。
江戸は何回も大火災に見舞われています。最初の大火災は、1657年(明暦3)1月18日~20日にかけてと3月2日から4か日にかけて起きた明暦の大火です。江戸市街の60%を消失した大火災でしたが、幸いにも犬塚家の一番町屋敷は延焼を免れました。下記が明暦の大火の延焼地域で、犬塚家の一番町屋敷は延焼地域から外れているのがわかります。
次に起きた大火災は、1697年(元禄10)10月17日に起こった元禄の大火です。大塚にある日蓮宗善心寺の門前から出火しました。大塚から出火した火災は茗荷谷、さらには筑土八幡や牛込まで延焼しました。また、麹町、番町あたりにも飛び火し、田安、飯田町、代官町の武家屋敷及び周辺の町家、見附門とことごとく灰となり、芝麻布あたりでようやく鎮火したそうです。この大火については、東京大学に所蔵されている「東京市史稿」に詳しく書かれています。コチラからご覧になれます。
早稲田抱屋敷
1657年(明暦3)ごろ~1815年(文化12年)
元禄の大火で犬塚家の一番町屋敷は類焼してしまいました。焼失から一か月後の同年(1697年)11月19日に、幕府から内藤千駄ヶ谷に代わりの拝領屋敷を賜りましたが、一番町の屋敷焼失後、犬塚家は牛込の済松寺領早稲田町に抱屋敷を建て、そこに移りすんだと「犬塚忠休」が呈譜した「諸家系譜」に記されています。
「地図で見る新宿区の移り変わり」(東京都新宿区教育委員会 著)に犬塚家の早稲田抱屋敷が記載された地図がありました。
1806年(文化3)正月に描かれたと記されています。
また、同書の「御府内場末往還其外沿革図書 拾九利」ー「牛込馬場下町同早稲田町刑部卿殿抱屋敷下戸塚村水稲荷社地辺の部」には、犬塚家の屋敷付近の変遷とそれを伝える絵地図と記述があります。
【以下、「牛込馬場下町同早稲田町刑部卿殿抱屋敷下戸塚村水稲荷社地辺の部」の訳文】
牛込、早稲田村、下戸塚、右の地所の内、当時東南の方は、刑部卿殿の抱屋敷、神明社地(赤城明神別当等覚寺持)、清水家来の渡邊敬助、同じく塚本権十郎の抱屋敷、中山備後守の抱屋敷、医師の西村見徹抱屋敷であり、牛込早稲田町濟松寺領町屋三ヶ所、同じく馬場下町の町屋三ヶ所、その他、早稲田村下戸塚村百姓地は一帯が地続きで一纏まり、また同所下戸塚村脇の野道を隔て水稲荷社地(別当宝泉寺)、法輪寺境内(年貢地)、龍泉院境内は地続きで一纏まり、同所水稲荷脇の野道を隔て下戸塚村百姓地で一纏まりとなっている。
右の抱屋敷、寺院社地、町屋百姓地の地所は、延宝の頃(1673年から1681年)、東南の一部、牛込早稲田町百姓町屋三ヶ所、同じく馬場下町の町屋弐ヶ所、菅沼藤十郎の抱屋敷であった。この抱屋敷は、年月不詳だが中山五郎左衛門抱屋敷になり、文化12年亥の年(1815年)に一橋家来の後藤安次郎に譲渡され、弘化3年(1846年)に同人抱屋敷を切坪して、清水家来塚本権十郎と同じく渡辺庸蔵(当時、敬助)へ譲渡され、二つの屋敷になる。当時、同所うちにあった神明社地、この社地は古くから当初にあって、寛文の頃、戸塚村の椿山に引き移ったが地所不詳、その後、天和の頃、また別所に立ち戻ったが事実不詳のため沿革絵図には除かれている。
並びに、刑部卿殿抱屋敷は、年月不詳だが元禄の頃は、犬塚平右衛門の抱屋敷であった。文化12年(1815年)の亥の年、犬塚寛之丞(先述の平右衛門)は抱屋敷を切坪して民部卿殿の家来、新村藤兵衛中山備中守(当時、備後守)、医師の西村瑞案(当時、見徹)へ譲渡し、二つの屋敷となった。天保9年(1838年)戌の年、右の二つの屋敷のうち、新村藤太夫(先述の藤兵衛)の方を一橋殿(当時、刑部卿殿)に譲渡され、抱屋敷とした。中山備後守と医師の西村見徹の抱屋敷は無くなる。
右の社地並びに抱屋敷の辺りは、早稲田村や下戸塚村の入会百姓地であった。延享2年丑の年(1745年)の頃は、前に書いた通り、牛込早稲田町百姓町屋(当時の町名は牛込早稲田町)の三ヶ所、同じく馬場下町町屋の弐ヶ所(当時の町名は牛込馬場下町で、この弐ヶ所の町屋は当時は用水堀を跨いで三か所だった)などは、町並み地になっていたので、このほかの野道や用水堀など古くから地形が不明な所は、右の絵図書には書き入れていない。現況を絵図に書き出し、それ以外は延宝の頃(1673年から1681年)の形である。
【訳文おわり】
「御府内場末往還其外沿革図書 拾九利」ー「牛込馬場下町同早稲田町刑部卿殿抱屋敷下戸塚村水稲荷社地辺の部」の原文です。
犬塚家の早稲田抱屋敷が建てられる前の延󠄂寳年 ( 寛文の後、天和の前、1673年から1681年までの期間)の頃の地図です。
犬塚家の早稲田抱屋敷が建てられた後、1745年(延享 2)頃の地図です。犬塚家が早稲田抱屋敷を建てたのは、1697年なので建てられてから48年後の地図ということになります。
1807年(文化4)頃の犬塚家の早稲田抱屋敷跡の地図です。刑部卿殿(一橋家)抱屋敷と記されています。
1806年(文化3)正月に描かれた「犬塚寛之丞御抱屋敷」が明記された絵地図と1854年(嘉永7)に描かれた一橋家の抱屋敷が明記された大久保絵図を使って、早稲田抱屋敷の位置を特定し、それを現代の地図に投影してみました。
「馬場下」と「神明社」の位置が参考になります。
次に「穴八幡宮」、「法輪寺」、「龍泉寺」、「富士塚」の位置から、早稲田抱屋敷の位置が特定できました。
現在「富士塚」は、現在早稲田大学の構内になっています。江戸時代、富士塚から早大南門通りまでは下り斜面で、そこから早稲田抱屋敷があった丘に向かって上り斜面になっていたようです。
千駄ヶ谷拝領屋敷
1697年(元禄10)11月19日~1790年(寛政2)11月11日
先述した通り、元禄の大火で犬塚家の一番町屋敷は類焼し、焼失から一か月後の同年(1697年)11月19日に、幕府から内藤千駄ヶ谷に代わりの拝領屋敷を賜りました。その屋敷がこちらになります。
東京都渋谷区が出版した「渋谷区史」の上巻第二節「武家地の成立と発展」の第四項「千駄ヶ谷の武家屋敷」(713ページ)に犬塚家の千駄ヶ谷拝領屋敷に関する記述がありました。以下、引用します。
第四項 千駄ヶ谷の武家屋敷
千駄ヶ谷の旗本新屋敷 現在、千駄ヶ谷一丁目から五丁目、さらに大谷戸町などに区分されているこの地域を概観するに、その特色とすべきは、旗本・御家人など幕府直属家臣団の屋敷が密集して存在していたということであろう。
この地域の北寄りの部分(現在新宿区寄り)は、古く天正一八(1590)年に設けられた広大な高遠藩内藤家の屋敷の構内に属していたのであるが、天和三(1683)年・元禄一〇(1697)年の両度にわたって、この部分が上知となり、それに接する千駄ヶ谷村の百姓地をも含めて一円縦横に新道が布設されて、ここに多数の旗本御家人たちに屋敷が割り当てられた。そこでこの辺一帯を内藤宿新屋敷または千駄ヶ谷新屋敷と称した。
このような天和とくに元禄10年に旗本屋敷が、新たに多数設けられたことは、先に述べた元禄の地方直しを中心にした、旗本対策に関係があるものとみることができそうである。つまり、寛文・延宝の頃から頻繁にみえる旗本の分家の現象と、元禄をピークとする彼らの地方給地と言う事実は、旗本の財政的窮乏に対応する幕府の政策の一つとみることができるから、新たに屋敷を与えて居住させることは、この様な事実と関係するものであり、かつ地方給地と関連して、しかも彼らを地方の陣屋支配の形としてではなしに、単なる年貢取得者にとどめておこうとする旗本統制の意味をも担っていたのではないかと思われる。
これらこの地域の旗本御家人の屋敷は、元禄前夜に成立したものであるが、時代の降るにつれてその区割りは細分化し、次第に多数の小規模屋敷が多数あらわれるに至る。その沿革については、後に記するところを参照せられたい。このような現象とともに注意をひくのは、与力・同心・小人・黒鍬者・御掃除役などの下級役人の大繩屋敷が各所にみられることで、たとえば大番組与力同心、先手組与力同心などや長崎奉行与力同心、或いは二の丸御小役人、黒鍬者などの屋敷が散在していたのである。
千駄ヶ谷の大名屋敷 千駄ヶ谷地域は以上述べたように、旗本御家人の小規模屋敷が多い点に特徴があったので、武家屋敷が多い割合に大名屋敷は多くないのである。その旗本屋敷は、いまの四・五丁目および大谷戸町に多かったので、大名屋敷はその地域のはずれの地域に多少存在していた。たとえば、一丁目にあった加納藩水野邸のち紀伊家抱屋敷や二丁目の結城藩水野邸は旗本屋敷地域の東のはずれの地であるし、四丁目でも南によった松山藩酒井邸や久留米藩有馬邸は同じく南のはずれ地に当たり、さらに五丁目から代々木一~二丁目にかけて宇都宮藩戸田邸や小幡藩松平邸その他の藩邸があったが、これは旗本屋敷の北西のはずれに当たっている。このように大名屋敷は旗本屋敷集団からややはなれて、村の百姓地に接するような地に、旗本屋敷よりも一般には広い地域を占めて存在した。次に主なる大名屋敷を列挙し、積荷に各地域別に細説する。
――― 中略 ―――
千駄ヶ谷一丁目 この地域は、古くは千駄ヶ谷百姓地の多いところで、今の東京都体体育館附近は安藤彦兵衛抱屋敷があり、その西、すなわち今の千駄ヶ谷駅辺りから南にかけては、高遠藩内藤若狭守屋敷の構に含まれていた。内藤屋敷の南は下野烏山藩主(のちに赤穂・飯山・館山・岩槻・加納に転封)永井伊賀守抱屋敷が、広大な面積をもって八幡神社の前の道路までひろがっていたのである。また、永井屋敷のさらに南は八幡宮および別当瑞円寺の寺社地である。またこの八幡宮のところから東に向かう道路の北側には聖輪寺があり、この辺一帯の道路に面して町屋の存在がみられた。寺社および町屋については別項でのべることにするが、ここでは、武家屋敷、すなわち、安藤・永井両抱屋敷、および安藤屋敷の南に貞享の頃できた桜井庄之助抱屋敷、さらにこの地域の北西部の内藤若狭守屋敷などについてその沿革を見ることとする。
延宝年間図にみえる永井・安藤両屋敷のうち、安藤彦兵衛抱屋敷はまもなく永井抱屋敷に編入せられ、元禄ころには、この両方を合わせて松平隼人正の抱屋敷に改まった。ついで、元禄一五(1702)年米沢藩上杉家家臣宮崎弥平治の抱屋敷になったが、まもなく宝永六(1709)年紀伊家家臣福原次左衛門の手を経て、正徳二(1713)年紀伊家抱屋敷になった。『南紀徳川史』によると、天保十三年屋敷改江書上ヶ面坪数壱万五千六百拾八坪及三千九百坪合壱万九千五百十八つぼ云々、同所御添地七千四百坪弘化元年三月十四日千駄ヶ谷三枝右近上地割残ノ分御願之通り添地ニ被仰出、千駄ヶ谷新屋敷ト唱フ、とみえている。この七千四百坪の添地というのは、この地から南にやや離れて今の千駄ヶ谷三丁目に属する地にあった(721ページ参照)
延宝の頃、前期安藤家屋敷の南側は千駄ヶ谷村の百姓地であったが、貞享のころ(1684~7)旗本桜井庄之助がこの地に抱屋敷を設けたのである。この桜井屋敷は、その後、宝永三(1706)年、村上藩主内藤紀伊守が譲り受け、久しくその抱屋敷として存続したが、やがて文化三(1806)年、松平(鍋島)肥前守斉直に譲られた。
一方、前記、永井家抱屋敷すなわち、後の紀伊家抱屋敷の北側は、古くは高遠藩内藤家屋敷の構内であったが、元禄10年、この部分は上地となり新道が通じて、新たに旗本御家人の屋敷に分割された。当時、この辺りを内藤新屋敷六軒丁といったのである。ここに永島百助・奥村数馬・野々山新蔵・伊藤杢左衛門・岡部久太郎・犬塚平兵衛(良重)・油川源兵衛・難波田権六郎・の八屋敷ができ東の端に割残地が生じた。これらは、伊藤杢左衛門が、元禄11年に上知になったのをはじめとして次第に所有者を変え、割残地も元禄12年に千駄ヶ谷村御預、元文5年、榊原権之進に渡された。 かくして、中央部分に岡部・犬塚両邸を併せた高力家ができたほか、西の四家はついに九家に、東の三家は六家にと、いずれも小屋敷に細分化されていったのである。その経過を略示すると、次のごとくである。
巣鴨拝領屋敷
1790年(寛政2)11月11日~1843年(天保14)4月
【千駄ヶ谷拝領屋敷】で引用した「渋谷区史」の中に「かくして、中央部分に岡部・犬塚両邸を併せた高力家ができた」という記述があります。一方、「犬塚忠休」が呈譜した「諸家譜」の中には「拝領屋敷巣鴨、寛政二年庚戌年十一月十一日拝領屋敷内藤宿千駄ヶ谷より高力修理下屋敷巣鴨と相対替えを願う」という記述があります。これら二つの記述を基に調査を行ったところ、「豊島区史資料編三 第二編近世 第四章 地誌・随筆類(二〇)御府内場末往還其外沿革図書(抄)221ページ」に下記の記載がありました。
以下が訳した内容です。
「巣鴨松平豊前守下屋敷辺の部」
巣鴨の内とは、東南の方は安藤飛騨守下屋敷脇より巣鴨村百姓地前通り道まで、西北の方は稲葉大膳屋敷後ろより鍋島内匠頭屋敷脇手まで、東北の方は巣鴨村百姓地脇より鍋島内匠頭屋敷の後ろまで、西南の方は稲葉大膳屋敷脇より安藤飛騨守下屋敷前の通りまで。
延享四年卯年正月、前書の刑部卿殿下屋敷は上ヶ地になった。同年十一月、右の上ヶ地は、巣鴨町西ヶ原村名主両人へ御預になった。寛延二巳年八月、前書の刑部卿殿上ヶ地の一部は、東は水上美濃守屋敷(さらに嘉永六丑年六月、相対替えして水野監物屋敷になった。)になった。同年十月同所の一部が高力若狭守の屋敷になった。寛政二戌年十一月、屋敷の一部を犬塚平右衛門へ切坪相対替えして、二つの屋敷になった。同十一未年三月、高力平八郎(先代、若狭守)屋敷は、切坪した残りの土地を一色源三郎(さらに天保十四年卯年十月、相対替えして靭負―当時隼人―となった。)と鈴木亀五郎(文政元寅年六月に相対替で蜂屋五百太郎になった。)に切坪相対替えして、二つの屋敷になった。その後、文化十一年戌年十一月、犬塚寛之丞(先代、平右衛門)屋敷の一部は、桑山六三郎に切坪相対替えして、二つの屋敷になった。文政二卯年十一月、犬塚平右衛門(先代、寛之丞)屋敷は、切坪残地の一部を福島小左衛門(天保十四卯年四月、相対替えして松風金八郎―当時鎌三郎-屋敷になった。)に切坪相対替えして、二つの屋敷になった。天保二卯年二月、犬塚太郎右衛門(先代、平右衛門)屋敷は、切坪残地の一部を牧野越中守(下屋敷ニ成当時備後守)に切坪相対替えして、二つの屋敷になった。同十四年卯年四月、犬塚太郎右衛門屋敷は、切坪残地を相対替えして、福島良平(弘化四未年十二月、相対替えして荻原鐔之丞屋敷になった。)屋敷になった。
巣鴨屋敷のあった土地の変遷を年表に纏め、それを図に纏めると次のようになります。
さて、巣鴨屋敷が現在の地図で、どの辺りであったかを確認するために、御府内場末往還其外沿革図書の1790年(寛政2)の地図と1854年(嘉永7)頃の地図を重ねた略図を作成し、それと1858年(安政5)に作成された絵地図を重ねてみました。順に地図をご覧ください。
御府内場末往還其外沿革図書の1790年(寛政2)の地図
御府内場末往還其外沿革図書の1854年(嘉永7)頃の地図
御府内場末往還其外沿革図書の1790年(寛政2)の地図と1854年(嘉永7)頃の地図を重ねた略図
この略図と1858年(安政5)に作成された絵地図の松平豊前守と安藤飛騨守の屋敷位置(赤枠部分)から考えて、犬塚家の巣鴨屋敷の位置は、現在の六義園の斜向かい(青枠部分)の牧野備後守屋敷の位置にあったと判断できます。
さらに、これを現代の地図に投影すると巣鴨犬塚家の屋敷は、六義園の斜向かい、山手線「巣鴨」駅の北東、線路沿いの青枠の部分になると考えられます。
浅草堀田原拝領屋敷
「浅草鳥越堀田原辺絵図」に「犬塚太郎右衛門(忠邦)」の屋敷を見ることができます。
菊川拝領屋敷
こちらの屋敷は、残念ながら未だ古地図などで場所が確認できておりません。