関ケ原の戦いが起きる約3年前、豊臣秀吉は朝鮮に攻め込んでいました。いわゆる朝鮮出兵です。朝鮮出兵は文禄の役 (1592-1593)と慶長の役 (1597-1598) と呼ばれる計2回行われました。
この慶長の役のでは秀吉軍が築城した蔚山城を巡り、明・朝鮮連合軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられました。この時、蔚山城を守っていたのは黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎、加藤清正、早川長政、竹中隆重、毛利高政の七将で、また諸将の戦いぶりを監督していたのは軍目付であった福原長堯(石田三成の妹婿)、熊谷直盛(石田三成の娘婿)、垣見一直でした。この攻防戦は秀吉軍の勝利で終わりましたが、福原長堯ら軍目付が行った豊臣秀吉への報告によって、七将は秀吉から譴責と処分を受けましたが、一方で、福原長堯らには褒美が与えられました。これを切っ掛けとして七将は、反・石田三成勢力となりました。
慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が没し、続いて慶長4年(1599年)3月3日に前田利家が病死しました。利家が亡くなった夜、七将たちは前田家屋敷から辞去する三成を討つ計画を立てていました。しかし、三成は豊臣秀頼に侍従する桑島治右衛門からの通報で利家邸を密かに脱出し、その後、佐竹義宣の協力を得て、宇喜多秀家の屋敷に逃れ、3月4日に伏見城内の治部少輔曲輪にあった自らの屋敷か、伏見城の対岸にある向島城にいた徳川家康の下に逃れます。
その後、家康は、三成を隠居させる事と蔚山城の戦いの査定を見直しする事で両者の交渉を妥結させ、3月10日に向島城にいた家康の次男・結城秀康に三成を警護させ、三成の居城である佐和山城まで送り届けさせました。三成は、佐和山での別れ際、秀康の労をねぎらい正宗の佩刀を秀康に贈りました。慶長4年(1599年)3月3日に起きた一連の七将らによる三成の排斥活動が七将襲撃事件(しちしょうしゅうげきじけん)と呼ばれています。
なお、三成が秀康に贈った正宗は「石田正宗」「石田切込」という名で知られ、現在、東京国立博物館に収蔵されています。
さて、石田三成を伏見から佐和山城まで送り届けた結城秀康に犬塚平右衛門忠次が同行していたことを示す『福原直高小伝』という史料が見つかりました。『福原直高小伝』は、福原長堯(直高)の嫡男直章(利平、利兵衛)の家系が代々存続し福原長堯(直高)の事蹟を纏めたものです。
『福原直高小伝』第十二、征韓の諸将不和 三成遂に隠遁すには「三成は兎も角も一應は佐和山に歸城する事に決意し、その期日を閏三月十一日と定めて、この旨を家康に通知した。家康よりは二男の三河守(結城秀康)を代理とし、犬塚平右衛門・安藤彦兵衛それに三成の親交ある生駒雅樂頭・中村一氏の両人を添えて同道せしめる。」と記述されています。
「三成の親交ある生駒雅樂頭・中村一氏」の記述から彼らは三成側の立会人なので、犬塚平右衛門と安藤彦兵衛(直次)が結城秀康を警護したものと考えられます。ちなみに、安藤直継は、慶長5年(1600年)から元和2年(1616年)までは幕府老中を務め初期の幕政を仕切りました。
ウキペディア 石田正宗 鎌倉時代末期 東京国立博物館所蔵
三成失脚の直後の3月19日、五大老によって蜂須賀家政・黒田長政の蔚山城の戦いでの武功は認められる一方、慶長の役で福原長堯・熊谷直盛等は私曲を秀吉に訴えて有利な裁きを出したとして、長堯はすべての領地を没収されて改易となりました。福原長堯は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは石田三成の親族武将として西軍に属し、大垣城の本丸に手勢200余で立て籠もりましたが、和議に応じて降伏し、出家して道蘊(どううん)と名乗り伊勢国朝熊山の永松寺に蟄居しましたが、10月2日、長堯は自らの意思で自刃しました。佐和山城にいた長堯の嫡男直章(利平、利兵衛)2歳は落城の時に城外に避難したそうです。
以下、『福原直高小伝』の【第十二、征韓の諸将不和 三成遂に隠遁す】の関連部分です。
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1142684/1/47?keyword=%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E7%9B%B4%E9%AB%98%E5%B0%8F%E4%BC%9D%E3%80%80%E7%8A%AC%E5%A1%9A%E5%B9%B3%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80