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犬塚平右衛門重世と将軍家光の御勘気

 犬塚平右衛門重世は、犬塚家四代当主として、徳川二代将軍秀忠および三代将軍家光の二代に仕えた旗本です。『寛政重修諸家譜』によれば、慶長7年 十三歳の時、小姓として出仕した後、寛永8年4月10日 御小納戸役として、家光に仕えました。寛永10年4月10日に御膳奉行となり知行も増加したので、その経歴は概して順調であったと思えます。

 しかし、その経歴の中に一点、不明瞭な出来事が記されています。それは、将軍家光より御勘気を被ったという記事です。本稿では、この御勘気の経緯について、現存する史料を検討しつつ、その背景について若干の考察を試みます。

1.二ノ丸勤めと御勘気

 『寛政重修諸家譜』には、重世について次のように記されています。

「寛永十九年十一月朔日より二丸に勤仕し、のちゆへありて御勘気をこうむり、慶安四年十月十七日赦免あり。」

この記事から、重世が寛永19年(1642)11月1日より二ノ丸に勤仕し、その後、何らかの理由により御勘気を被り、慶安4年(1651)に赦免されたことが確認できます。ただし、「のちゆへありて」とあるのみで、その具体的理由については記されていません。

また、『大猷院殿御実記』寛永19年11月1日の条には「犬塚平右衛門重世は二丸に候せしめられ」と簡潔に記されています。これはあえて役職が書かれていないので、「二ノ丸御膳奉行」への役替えを意味するものかと思います。二ノ丸は将軍家の私的空間に近い役所であり、そこに勤仕することは、必ずしも左遷を意味するものではありません。二ノ丸へ移った時点でも、なお将軍家の近臣として位置づけられていたと考えられます。

2. 御勘気理由の不記載について

 重世が御勘気を被った当時、年齢は五十代前半であり、長年幕府に奉仕してきた家臣でした。一方、将軍家光は三十代後半にあたります。もし重世自身に明確な不正行為や重大な職務上の失態があったのであれば、何らかの形で公的記録にその理由が残されていても不自然ではありません。しかし、『寛政重修諸家譜』をはじめとする諸史料は、この点について記述がありません。

3. 寛永期の宗教政策と連座の問題

 寛永年間は、幕府がキリスト教に対して強硬な姿勢を示していた時代です。島原の乱以後、キリスト教は体制秩序を脅かす存在とみなされ、信者のみならず、その縁者に対しても厳しい監視や処分が行われました。この時期には、本人が直接キリスト教に関与していなくとも、親族や姻戚関係に疑惑を持たれた人物がいる場合、連座的に不利益を受ける事例が存在したことが、諸史料から確認できます。

4.梅原大膳事件との関連性

 重世の正室は、蒲生氏家臣・梅原弥左衛門(二本松城代 8,000石)の娘です。ここで注目されるのが、同族とされる梅原大膳の存在です。 二本松藩士の系譜を記した『世臣伝』によれば、梅原大膳は、蒲生氏郷に仕えた梅原弥左衛門の一族で、のちに二本松藩(丹羽家)に仕えた人物とされています。同書には、寛永20年(1643)、梅原大膳がキリスト教信仰の疑いを受け、取り調べを受けたことが記されています。

 また、「お茶の水史学 45号」に掲載された福留真紀氏の論文「近世前期小姓組番支配の一考察」によると、「入御番衆之定幷三年勤切米拝領之覚」という項目に、

「安藤伊賀守(重之)組 犬塚小善次(忠世)事、親平右衛門(重世)ため尓、梅原大膳ハ小舅ニ付、十ヶ年程閉門仕候、小善次も一所尓引篭有候処尓、承応元辰ノ年(1652)父一所尓致(ママ被ヵ)召出候 云々」

との記事があり、明確に梅原大膳の事件に連座したことが述べられています。すなわち、梅原弥左衛門の娘(重世妻)と大膳は兄姉(きょうだい)であり、大膳の耶蘇信仰の疑いにより連座して「重世・忠世」父子が閉門を仰せつかったということです。

 そして、丹羽家の「世臣伝 四」の「梅原」の項目に、「梅原大膳は寛永20年(1643)に耶蘇信仰の疑いをかけられ、明暦元年(1655)十月にその疑いが晴れて、本領を安堵された」とあります。この史料で「重世・忠世」父子が連座した時期が、寛永20年であることが推察されます。

 さらに、「松藩廃家録 坤」の「二百五十石 梅原半右衛門清茂」の項に、

「高祖父大膳は、耶蘇宗門たる御不審蒙りて、評定所(公儀の評定所なり)にて、召問ハれけるに、大膳が申分悉く相立けれハ先知安堵すへきの 仰蒙りて再び本藩に帰り仕ふ」

とあり、大膳は江戸で十年近く幽閉され、詮議を受けていたものと思われます。最終的に公儀評定所において身の潔白が証明され、これによって「重世・忠世」父子の連座閉門が解かれたことがわかります。

 以上の史料から親族の宗教問題が影響して「重世・忠世」父子は本人の罪ではなく、縁戚関係によって処分を受けたことが判明しました。これは、寛永期における幕府の宗教統制の厳しさを示す一事例として位置づけることができるでしょう。

5.赦免の時期と将軍家光の死
 慶安4年(1651)の4月に将軍家光は死去します。重世と忠世が赦免されたのは慶安4年(1651)10月です。家光の死後まもなく赦免が行われている点は、「恩赦」とも考えられますが、果たしてどうであったのでしょうか。翌年の承応元年(1652)に父子共に召出されます。小善次忠世は、寛永17年(1640)3月19日より「部屋住」のうちに小姓組番を勤めていましたが、寛永20年(中)に親と共に閉門を申し付けられ、その際「番」を三年勤め上げているので、承応元年許しが出て再び召し出された際に、老中にその由を申し上げ、その後「番」を一年勤めた後、承応二年に「切米二百俵」を受け取っています。

おわりに
 犬塚平右衛門重世に対する御勘気については、妻の兄姉(小舅)である梅原大膳の「耶蘇信仰問題」による「連座」として、10年にも及ぶ「閉門」が言い渡されたことは、「犬塚平右衛門家」にとって計り知れないダメージを受けたものと思われます。

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