犬塚忠次と井伊直政。この二人の間には、どこか特別なつながりがあったのではないかと感じさせる史料が残されています。
二人の正室はいずれも松井康親の娘であり、家族関係の上でも近しい間柄でした。また、ともに徳川家康の側近として仕え、常に主君の身近にあったことも、自然と距離を縮める要因だったのかもしれません。そうした背景を思い合わせると、近年確認された一通の書状は、たいへん興味深い意味を持ってきます。
天正二十年(1592)二月、犬塚忠次は家康に従って、文禄の役に出陣しました。目的地は、九州・肥前名護屋。そこから江戸へ戻るまでには、実に一年半以上の歳月を要しています。一方、その間の江戸では、井伊直政が榊原康政らとともに若き徳川秀忠を支え、家康不在の留守を守っていました。
その留守中、直政が忠次へ宛てて送ったのが、今回紹介する書状(彦根城博物館収蔵)です。文面から考えると、書かれたのは文禄二年(1593)三月十二日とみられます。内容は決して大げさなものではありませんが、行間からは相手を気遣う気持ちが静かに伝わってきます。

飛脚にて申し上げます。
「七蔵殿がお留守の間、こちらは何事もなく、つつがなく過ごしております。」私どもの使者も、二、三日前に無事江戸へ戻ってきました。七蔵殿からのお手紙も、確かに受け取っております。
「お変わりなくお過ごしとのこと、いずれはご帰陣になる由、その旨を奥方様方にも伝えておきます。今後、何かご用があれば、どうか遠慮なさらずに仰ってください。長いご出陣、本当にお疲れさまに存じます。」
とても穏やかで、思いやりに満ちた文面です。とくに目を引くのは、直政が忠次を「七蔵殿」と呼んでいる点でしょう。
忠次は直政より五歳年上で、二人は義兄弟の関係にありました。当時、忠次は公式には「平右衛門」と名乗っていたと考えられますが、直政はあえて、より私的で親しみのこもった呼び名を用いています。この呼び方からは、単なる同僚や家臣同士を超えた、深い信頼関係が感じられます。
また、この「七蔵」という名は、犬塚家本家の嫡男が最初に名乗る通称であったことを示す点でも重要です。つまりこの手紙は、忠次個人の人となりだけでなく、犬塚家の系譜を考える上でも、貴重な手がかりを与えてくれる史料なのです。
二人の結びつきは、その後の歩みからも見て取れます。忠次の弟・犬塚求之介正長は、家康の命によって井伊家に仕え、直政とともに関ヶ原の戦いに臨みました。さらに戦後、忠次自身も彦根城の普請奉行を務め、直政の子・直継を助けています。
もちろん、これらはすべて主君・家康の命によるものではあります。しかし、一連の出来事を振り返ると、その背景には、忠次と直政の間に築かれていた個人的な信頼と理解があったのではないかと想像します。
一通の短い手紙ですが、そこには戦国の世を生きた武士たちの、静かで温かな人間関係が確かに刻まれています。史料を通して浮かび上がるのは、武功や役職だけでは測れない、もう一つの歴史の姿なのかもしれません。