5代 忠世(1616年生まれ、1696年没)

5代「忠世」、通称は「平右衛門」、「小善次」です。「重定」という名もあった様です。父の「重世」には家を継ぐ男子がいませんでしたので、青木小右衛門正完の三男を養子に入れ「忠世」となります。

寛政重修諸家譜1077巻には、「重世やしない子とす。実は青木小右衛門正定が子なり。青木氏の系図別に出す。」と書かれているので、かなり小さい頃から「重世」によって育てられたと思われます。また、実母、つまり、青木小右衛門正定の妻は、飯室次郎兵衛昌喜の娘であったと書かれています。

「忠世」は養子ですが、4代「重世」の説明で書きました通り、「重世」の弟である松井半吾元真の娘が「忠世」の妻になっていますので、血筋は繋がっています。

寛永16年(1639年)11月6日から大献院(徳川家光)に仕えはじめ、寛永17年(1940年)3月19日に御小姓組に列しましたが、先述の通り、寛永19年(1642年)11月1日に父親の「重世」が徳川家光の御勘気を被ったため、父と共に慶安4年(1651年)10月17日まで閉門を命じられます。父「重世」と共に約9年間不遇な生活が続きました。明暦元年(1655年)11月25日に家督を相続し御小姓組番頭を辞した後、小普請を賜り、延寶5年(1677年)12月12日に隠居しました。「忠世」は元禄9年(1696年)正月6日に亡くなり、享年80歳でした。法名は「遊斎」です。

墓石11番で眠っています。戒名は元了院殿釋遊斎です。

「忠世」の墓石の裏には、次のようなことが刻まれています。

一 父 犬 塚 平 右 衛 門 尉 重 定 法 名 遊 斎 生 子 主 日 本 氏 家 而
彰 育 于 祖 父 先 年 平 右 衛 門 尉 重 世 法 名 宗 休 孝 思 深 窹 寐
䉆 行 盖 枔 定 有 而 長 受 明 暦 元 乙 未 歳 養 家 禄 継 犬 塚
之 氏 而 奉
幕 下 忠 良 抜 郡 而 吐 哺 武 事 堅 持 而 志 誌 縉 徳 澤 興 枔
家 門 元 勲 末 柃 宗 祖 可 譜 書 善 書 焉 終 包 寛 丈
五 乙 巳 年 致 仕 予 亦 續 三 世 之 餘 緒 重 荷 惠 情 深 涼 同 心 澤
而 今 歳 丙 子 孟 春 六 八 十 四 歳 以 天 然 而 仙 遊 住 事 断 䐧 迅 景 呑
壱 白 髪 暫 存 如 雷 露 青 山 長 月 有 霞 烟 誠 死 生 有 命 空 拭
涙 㾗 杸 毫 追 時       犬 塚 平 兵 衛 尉 良 重 謹 誌     

【以下訳文】

父、犬塚平右衛門重定(忠世)の法名は遊斎で日本の名家に生まれました。重定(忠世)を育てた父は、平右衛門重世で法名は宗林でした。重世は、蔦が枝葉を徐々に覆っていく様に物事を深く静かに思考する聡明な人で、明暦元年乙未の年に家禄と犬塚の家名を重定(忠世)に譲りました。重定(忠世)は、徳川幕府の中で抜群の忠義を尽くし、武芸の鍛錬を怠らず、また祖先の功績を収集し書き記しました。延寶5年に役目を辞し、重責から開放される涼やかな思いと、それを三世(良重)が引き継ぐ苦労を思い遣りながら家督を譲りました。騒がしい俗世間のことから離れ悠然と暮らしていましたが、今年の孟春(1月)6日に84歳で亡くなりました。三日月が出ている深い山々には霞がけむり、今、そこに景色を飲み込む一条の白髪のような稲光が走りました。誠に生と死の間に命があります。涙を拭った痕に筆を走らせています。犬塚平兵衛良重が謹誌。

「忠世」には3人の娘がありました。

長女は、大御番北条伊勢守組 坪内平左衛門定経に嫁ぎました。

次女は、御小姓組加々爪甲斐守組 高林興五右衛門昌近に嫁ぎました。

三女は、二之丸御廣敷番頭 榊原左大夫政澄に嫁ぎました。

「近世都市江戸の社会構造」(岩淵令次 著)の 第二章 近世中、後期江戸の「家守の町中」の実像 で、忠世が日本橋通壱丁目付近(現在のコレド日本橋付近)に町屋敷を所有していたという記述があります。



岩淵氏は、忠世がこの時期、将軍家光の勘気を被っていたので、忠世自身が住んでいた可能性があると一旦、考察していますが、犬塚家は一番町(現在のインド大使館付近)に屋敷を賜っていたので、結論通り賃貸に出していたと思います。また、忠世が亡くなった後、名義は坪内平右衛門定経に嫁いだ長女になったと記述されています。旗本である忠世が、町屋敷を所有し賃貸業を営んでいたのであれば、何とも興味深いことです。

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