13代「忠邦」、の通称は「太郎右衛門」でした。
文政10年(1827年)稿【国字文名集】によると、浅草堀田原奥屋敷に屋敷があったと書かれています。
天保8年(1837年)に大阪で起きた大塩平八郎の乱の鎮圧に尽力したようです。森鴎外著「大塩平八郎」の「十、城」中にその様子が次のように描かれています。
「土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つ時に定番、大番、加番、面々を呼び集めた。」「土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内所々を廻って警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取った。」「目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ手配は、日暮頃から始まつたが、はかばかしい働きも出来なかつた。」
森鴎外著「大塩平八郎」詳しくはこちら
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2298_16910.html
また、別の文献では、天保14年(1843年)1月25日書院番進物番より御使番となりました。弘化2年(1845年)大阪城目付代であったと書かれています。
詳しくはこちら
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000212686
大阪城の防備は、徳川譜代の1-2万石の大名が1年交代で城代・定番・加番を務め、また、大番は旗本が務めた様です。忠邦が務めた目付は、老中から直接命令を受けた監察であったそうです。詳しくはこちら
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/imai.htm
国立国会図書館所蔵の嘉永武鑑(嘉永:1848年から1853年まで)を調べると、「犬塚太郎右衛門」は、御使番衆、菊の間、布衣、700石と書かれています。
墓石には『始祖「忠吉」十一世之孫』と刻まれています。私の調査では「忠邦」は13代目に当たるのですが、「犬塚忠吉」から数えて11代目の「犬塚忠行」の孫は「犬塚忠邦」である、という解釈をすると合致します。
「犬塚忠邦」には、「政次郎」「音吉」「三七郎将順」「小善次」の4人の男子がいましたが、「政次郎」「音吉」「三七郎将順」が早世したため家督は四男の「小善次」が継ぎました。
長男「政次郎」は文政5年(1822年)12月25日に亡くなりました。
次男「音吉」は天保2年(1831年)に亡くなりました。
ご両人とも「忠邦」の妻、「忠良」の子供と同じ墓石5番で眠っています。
三男「三七郎将順」は、1849年に亡くなり、叔父「犬塚忠行」や「犬塚福詞」と共に墓石6番で眠っています。
「犬塚忠邦」は嘉永5年(1852年)2月9日に亡くなり墓石Bで眠っています。