「亀」の四男である「東平」の自叙伝が発見され、幕末から明治維新の頃の様子を窺うことができました。以下は祖父「小善次」や叔父「忠親」に関して、「東平」が記した内容をわかりやすく書き直したものです。恐らく父「亀」から聞いた話を記したものだと思います。
『徳川家の旗本であった犬塚家の知行は700石でした。明治政府は、すべての士族の知行を秩禄公債や金禄公債に振り替えました。これを秩禄処分と言います。「小善次」の700石の知行も公債に振り替えられました。そして「小善次」は公債を現金化して後継である「忠親」一人の教育費に充て、激しい時代の変化の中で犬塚家の存続を考えました。その甲斐があって「忠親」は通信技師になりました。ところが、残念なことに「忠親」は通信技師として小笠原諸島に赴任し、絶海の孤島暮らし故か酒で体を壊し若死してしまいました。』
上記の「東平」の自叙伝には、『「忠親」は小笠原諸島に赴任し早死した』と書かれていますが、明治30年(1897年)に「犬塚忠親」が台湾総督府の郵便電信書記に任命されたという記録が台湾の公文書館にありました。明治38年(1905年)に亡くなっているので、小笠原諸島ではなく台湾の間違えではないかと思います。
東京都公文書館には、次のような資料が保管されていました。
明治7(1874)年7月30日 貫属替達書并に送籍書受取 第五大区当番戸長塩原昌之助 第五大区浅草八幡町3番地へ入籍 浜松県犬塚忠親、曾祖母いわ、曾祖母小寿次、母よし、弟亀、姉ゑい、又従弟女ひさ
貫属とは、明治時代にその人がある地方自治体の管轄に属するという意味です。浜松県から東京に入籍してきた時の届出だったと考えられます。幕府崩壊後、徳川慶喜と共に多くの旗本が浜松や静岡に移り住みましが、生活に困窮し、またその多くが東京に戻ったと伝えられています。犬塚家も当主の「忠親」と共に浜松に移ったものの、東京に戻ったのだと思います。「曾祖母いわ」と書かれていますが、忠親の曾祖母は明治7年(1874年)に存命していません。そして「曽祖母小寿次」は父「小善次」の間違えだと考えます。
また、「日本紳士録」(交詢社文庫)の第二版から第五版に「忠親」が記載されています。
明治24年(1891)第二版 職業:官吏、住所:麻布区仲ノ町六
明治29年(1896)第三版 職業:東京郵便電信局書記、年収:3,600、住所:麻布區市兵衛町二丁目四四
明治30年(1997)第四版 職業:東京郵便電信局書記、年収:3,600、住所:麻布區市兵衛町二丁目四四
明治31年(1898)第五版 職業:東京郵便電信局書記、年収:6,240、住所:麻布區市兵衛町二丁目四四
1987年に比べて1898年の年収が2倍近くになっているのは、台湾に赴任したからだと考えます。そして、第六版以降の記載がないのも台湾へ赴任したためと考えます。この「日本紳士録」の「忠親」の右には、第29代内閣総理大臣「犬養毅」が記載されています。
そしてまた、東京都公文書館には、次のような資料が保管されていました。
明治32年(1899)年2月22日 雇員採用之件 東京市役所雇を命す 但水道部庶務課勤務 犬塚忠親 履歴書
明治32年(1899)年3月3日 東京市役所雇を命す 庶務課 犬塚忠親
明治32年(1899)年3月15日 雇員解職之件 依願免雇 雇 犬塚忠親 辞職願
これらの情報をまとめると、明治維新後、「小善次」は徳川慶喜と共に浜松に移住、しかし困窮の末に東京に明治7年(1874)に戻り、明治9年(1876)に太政官布告された秩禄処分で知行を秩禄公債か金禄公債に替え、また、その公債を現金化して「忠親」の教育に努めた。約15年後の明治24年(1891)「忠親」は官吏となり、更に明治29年(1896)に東京郵便電信局書記、明治30年(1897)台湾総督府の郵便電信書記となって台湾に赴任したが、体を壊して東京に戻り、明治32年(1899)に東京市水道部庶務課に就職したが体調が回復せず退職する。また同年、「小善次」が亡くなる。そして、5年後の明治38年(1905)に「忠親」が亡くなった。
「犬塚忠親」の誕生年は不明ですが、弟の「亀」と仮に3つ違いとすると、「忠親」の推定生年は1855年となり、「犬塚忠親」は50歳ぐらいで亡くなったと考えられます。
「犬塚忠親」は、善仁寺のBの墓石に父「小善次(忠良)」と共に眠っています。この墓石には、妻「き乃」と姉、「犬塚ゑ似」(「ゑ似」が忠親の姉であったことは、先述の東京都公文書館に保管されている明治7年の貫属替達書にて判明)の他に「犬塚寅」(昭和30年(1955)4月14日没)、「犬塚幹久」(昭和30年(1955)6月11日没)が眠っています。両名と「忠親」の続柄は不明ですが、一応、家系図では「忠親」の子供としておきます。
忠親の弟「亀」が記録した過去帳には、「忠親」には「犬塚金一」という長男がいて、明治23年(1890年)4月に没したと書かれています。戒名は「釋浄暁童子」ですが、墓石は未だ見つかっていません。
妻「き乃」は、昭和12年(1923年)3月29日に亡くなっています。ちなみに、同年9月に関東大震災が起きています。同じく「犬塚亀」の誕生年から類推すると、「き乃」は60歳代で亡くなったと考えられます。
「犬塚忠親」の生年を1855年と仮定し、25歳で子供を授かったとすると、「犬塚寅」、「犬塚幹久」の生年は、1880年前後と類推できます。死亡した1955年から推定生年である1880年を差し引くと、ご両名の享年は75歳前後であると考えられます。
「犬塚寅」、「犬塚幹久」の享年が75歳であれば、結婚し子孫が生まれた可能性がありますが、その子孫の墓石は善仁寺にはありません。