蒲生秀行の家臣で二本松城の城代を務める。
二本松城とは、(ウィキペディアより)
室町時代初期の興国2年/暦応4年(1341年)、室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国が塩沢・殿地が岡(「田地が岡」とも)に最初の居を構え、地名を二本松と改称し、畠山氏7代当主・二本松満泰が応永21年(1414年)もしくは嘉吉年間(1441年 – 1443年)にこの地に二本松城を築いた。
以後、陸奥に定着していた二本松氏は、戦国時代になると伊達政宗の攻撃を受ける。天正13年(1585年)10月、15代当主・二本松義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出た。輝宗のもとに出向いた義継は、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺された(粟之巣の変事)。政宗はすぐに二本松城攻めを開始したが、守備側は義継の子・国王丸を継嗣に立て籠城、城は政宗の猛攻によく耐え、援軍の佐竹義重・相馬義胤らが加勢に駆けつけたこともあり(人取橋の戦い)、政宗の攻撃を撃退した。しかし翌天正14年(1586年)に政宗が再度二本松城へ進軍すると内通者が出たため、7月16日に相馬義胤の口添えにより二本松城は開城、ここに二本松氏は滅亡した。
政宗は片倉景綱、次に伊達成実を二本松城代としたが、天正19年(1591年)に政宗が葛西大崎一揆の戦後処理で豊臣秀吉の命令により岩出山城に転封されると、二本松城は会津若松城主蒲生氏郷の支城となった。氏郷は蒲生郷成・町野重仍を城主に据えたが、慶長3年(1598年)に氏郷の子秀行が秀吉の命令で転封、代わって上杉景勝が会津に入ると城代は再度交代し下条忠親が城代となった。
上杉景勝が会津を領有した期間は短く、2年後の慶長5年(1600年)、徳川家康に敵対した景勝は関ヶ原の戦いの後に米沢城に移された。会津には蒲生秀行が復帰し、梅原弥左衛門と門屋勘右衛門が二本松城代となった。