重世の妻


梅原弥左衛門の娘

 『近江日野町志』によれば、「梅原弥左衛門」は蒲生氏の旧臣であり、本能寺の変後、天正10年(1582)の日野城における防衛体制の中でその名が見える人物です。蒲生氏の家臣団の中では、重臣の一人として位置づけられます。

 蒲生家が会津に移封され、石高92万石の大大名となった後、梅原弥左衛門は二本松城の城代を務め、知行を与えられました。蒲生秀行期の会津支配体制において、二本松は要衝であり、同地を預けられたことから、その信任の厚さがうかがえます。

 『史籍収攬』によれば、梅原弥左衛門は慶長7年(1602)に没したと伝えられています。その子も同じく「梅原弥左衛門」を名乗りました。

 蒲生家は、氏郷、秀行、忠郷と続き、寛永4年(1627)に忠知が伊予松山へ24万石で転封となりましたが、その後後継に恵まれず、寛永11年(1634)に改易となりました。

 「梅原弥左衛門」の一族に丹羽家の家臣「梅原大膳」(一説には弟)という人物がおりましてキリシタン信者として投獄されています。そして、この件が「重世」が「家光」から御勘気を受け謹慎の身となった原因ではないかと推測しています。詳細は別項目にて。

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