
(五郎、左衛門尉)
藤原北家の支流の人物です。天慶2年(940)に「将門の乱」を平定した「藤原秀郷」から数えて16代目の子孫であり、また治承4年(1180)に「源頼朝」の挙兵に応じた「小山下野守判官藤原朝政」から数えて7代目の子孫が「秀政」になります。
元弘2年(1332)3月、秀政は隠岐へ流される後醍醐天皇の警護をしていました。その時、美作国において後醍醐天皇に随従した「千種忠顕」から桜の一枝と共に次のような歌を賜ったと「増鏡」に記されています。
「うき旅と思ひは果てじ一枝も、花のなさけのかかる折りにて」
(このような折に、たとえ一枝の花の情けがあったとしても、この旅はつらい旅だという認識を、私は捨てるつもりはない)
「『うき旅と思ひ』は『憂き旅と思ひ』であり、後醍醐天皇の流罪(隠岐)そのものではなく、南北朝期の政治的・歴史的に不安定な状況を引き受けて進む苦難の遍歴であるとの思いであり、それは一枝の櫻花の情けがあっても変わるものではない」と解釈しました。
建武3年(1335)4月「武者所結番交名一番」(京都市中の警備・軍事的実働部隊の最上位)となります。
正平7年(1352)後村上天皇に従い、南朝(吉野朝廷)の首都となった賀名生(がのう)に退きます。
父:小山貞朝
母:中条宗長の娘
妻:長井時秀の娘