清二 (生年不明、1942年没)

亀の次男「犬塚清二」は、母親「はな」(亀の妻)の実家、伊東家に養子に行きました。跡取りがいなかったと伝えられています。その後「伊東清二」は「とよ」と結婚、昭和2年に女子「道子」が生まれました。

「道子」は成長し、言い伝えによると、東京駅丸の内側にある東京中央郵便局に勤めていまし。当時の東京中央郵便局は建て替えられ、現在は跡地にJPタワーが建っています。

「伊東清二」は昭和17年(1942年)に亡くなられ、伊東家の菩提寺である領玄寺(台東区谷中4丁目3-5)に眠っています。

領玄寺
橋本家の墓石

妻「とよ」と娘「道子」は墨田区千歳町に居住していましたが、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲(下町空襲)で亡くなられました。「とよ」は(41歳)、道子は(19歳)でした。

両人のご遺体は見つからなかったと伝えられています。お二人は、墨田区横網町の都立横網町公園にある東京都慰霊堂に合祀されています。二人のお名前は、東京空襲犠牲者名簿第三巻に記載され、その名簿は同公園内の「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の中に納められています。

横網町公園 西門
東京都慰霊堂
東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
東京都慰霊堂に保管されている名簿

更に、東京大空襲・戦災資料センター(江東区北砂1丁目5-4)で調べて頂いたところ、「伊東とよ」と「伊東道子」の名前が「都内戦災殉難者霊名簿」に記載されていることがわかりました。この名簿は、昭和27年(1952)から昭和30年(1955)頃に届け出によって纏められました。この名簿には届け出た方の氏名と住所を記載する欄があり、お二人の名前を届け出た方の詳細は、「中央区湊町1-9 橋本勝次郎」 と書かれています。そして「伊東とよ」との続柄には「姉」、「伊東道子」との続柄には「伯父」と書かれていました。

東京大空襲・戦災資料センターで頂いた名簿

「東平」の記録には、「忠三」と共に「清二」の永代供養をしたとの記述があり、そこに「とよ」の縁者として「橋本健」という方のお名前が出てきます。「橋本勝次郎」と「橋本健」の続柄は不明ですが、縁者であることは間違いないと思います。

領玄寺のご住職のお話では、現存する2つの墓石のうちの一つは「清二」のものであり、もう一つは伊東家のご先祖のもというお話だったので、このもう一つの墓石が「橋本勝次郎」のものかも知れません。

また、この名簿には、(東京大空襲の時の)避難時住所と遭難地に記載がありました。避難時の住所は「墨田区千歳町3-30」、遭難地は「中和国民学校付近」と書かれていました。同センターで頂いた現在と当時の地図は下記の通りです。

明治40年(1907)代の両国界隈
現在、令和4年(2022)代の両国界隈

同センターには「遺骨霊名簿」というも名簿がありますが、こちらにお二人の名前はありませんでした。「遺骨霊名簿」は、東京大空襲の直後、東京都の職員が、遺体に付着した名札などから目視で確認した情報に基づいています。「遺骨霊名簿」に記載された方の遺体は、仮埋葬の際、墓標などを立て、どの遺体が、誰のものか識別できるかたちで土葬され、戦後、改装事業に際し、東京都が火葬し、個別の骨壺に入れて東京都慰霊堂に保管されています。

先述の通り、聞き伝えによれば、お二人の遺体は発見されなかったので、同センターでの調査の結果と一致します。

伊東家のあった寿3丁目付近
中和小学校へは、この先の清澄通りを越えて3分の距離 この道沿いの何処かで罹災したらしい
現在も中和小学校はある
中和小学校の裏手の通りから見た校庭
中和小学校の裏手の通り

伊東家は、「清二」が養子に入りましたが、結局、絶えてしまいました。「忠三」「東平」によって永代供養の手続きがなされたと記録されています。

前のページに戻る