井伊家の要職を務めた犬塚求之介正長のご子孫の方から頂いた史料を基に記述いたします。
三河國東蔵前村の天神社社人加茂彦九郎の娘は、「石川右馬允康正」の側室でした。康正との間に5人の娘を産み、その次女は、犬塚家三代目当主「犬塚平右衛門忠次」の正室「赤羽殿」となりました。
康正の死後、彼女は徳川家康の側室となった後、さらに家康の家臣である松井康親の側室になったと下記の通り史料に記述されています。「東照宮の御側ちかくにつかえたてまつり、其のちおほせによりて松平周防守康親にあたえらる」。
彼女が、1568年頃に松井康親の側室になった時、彼女は、家康の子供を身籠っていたそうです。史料には、家康の子供であることの証として、『証拠に「信国の小脇差」を添えられ下賜された』 と記述されています。その後、彼女は、男子を出産し、その子が「松井康重」となりました。以後、松井家は松平姓を名乗り、松平周防守家(或いは、松井松平家)となります。
石川家、犬塚家、松井家、徳川家の相関図は以下の通りです。
ご覧の通り、犬塚忠次の正室である赤羽殿と松平康重は、異父姉弟です。犬塚忠次と赤羽殿の間には、実子の「重世」「大学」と養子の「伊織」の3人の男子がいました。重世は犬塚家4代目当主となり、大学は丹波笹山藩松平周防守家の若年寄格として仕官、また伊織は松井姓を名乗り、同じく丹波笹山藩松平周防守家の若年寄格として仕官しています。伊織を家祖とする松井犬塚家は、その後、松平周防守の馬回り、中老、年寄、番頭なんどの要職を務めています。
余談ですが、松井康親の娘が「井伊直政」の正室となっていますので、石川家、犬塚家、松井家、井伊家は、特別な関係にあったと推察できます。実際、豊臣秀吉の朝鮮出兵に伴い、家康に随行した犬塚忠次に井伊直政が送った手紙が現存しています。