細川忠隆が、慶長10年(1605年)から同14年(1609年)に京都に滞在していた時に千世との間に生まれた4子女、徳、吉、福、万のうちの一人。徳は後に左大臣・西園寺実晴室、福は後に久世家初代・通式室。

3代忠次の妻、赤羽殿

「犬塚忠次」の妻は、松井家譜によれば「赤羽殿」 と呼ばれていました。石川右馬允康正の側室「加茂彦九郎」の次女と書かれています。一旦、松井松平周防守康親の養女となってから、忠次に嫁いでいます。

石川家は、徳川家草創期の筆頭家老である名門の家柄です。その当主は、石川清兼 ⇒ 康正 ⇒ 数正 と続きます。特に、石川数正は、家康を扱う時代劇には必ずと言ってよいほど登場する人物です。

赤羽殿の法名は、 「称讃院殿釋尼妙慶大姉」(松井松平家御家譜)、卒年は 「寛永六年(1629)六月十九日」です。(松井家譜・松井松平家御家譜) 享年・葬干地 は共に不詳ですが、享年は69歳前後と考えられます。

赤羽殿が養女となった松平周防守家と犬塚家は、この後、深い縁で繋がることになりますが、詳しくは、三河國東蔵前村天神社社人、加茂彦九郎の娘をご覧ください。

ここでは、石川家、松井家、徳川家の相関図だけを載せておきます。









良重の妻

「良重」の妻は、榊原八兵衛政盛の娘です。

榊原政盛は、藤原秀郷の流れを組む一族の様です。現在までの所、墓石は特定できていませんが、文京区小石川善仁寺に眠っていると思われます。なお、娘二人の墓石は、文京区小石川善仁寺に現存しています。

以下、サイトからの引用

「秀郷流藤原氏を称し、三河の榊原氏の惣領家と考えられる。
親氏以来代々の松平家に仕えたとされ、忠次は広忠期の家老となり、忠政は家康の小姓として人質時代から近侍しており、長久手役までの主要な合戦に供奉した。孫忠豊の時に本家は無嗣断絶となったが、子弟の多くが中級の旗本として遇されている。遠山金四郎の母系でもある。」

http://iwarehiko.web.fc2.com/page109.html

榊原八兵衛政盛

インターネットで検索すると、「榊原八兵衛政盛」に関する記述はありませんでしたがが、その子の「榊原忠知」に関しては、下記の記述が見つかりました。

https://kotobank.jp/word/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E7%9F%A5-1077327

1660-1729 江戸時代前期-中期の武士。
万治(まんじ)3年生まれ。幕臣榊原政盛(まさもり)の長男元禄(げんろく)4年家督をつぐ。火事場目付(めつけ),使番(つかいばん)などをへて先手鉄炮頭,持弓頭から享保(きょうほう)10年新番頭に転じた。享保14年9月15日死去。70歳。初名は政純。

忠世の妻

「忠世」の妻は、「重世」の弟で松平周防守康親の家臣となった、犬塚大学(後に半吾正真)の娘です。「犬塚忠世」は、青木小右衛門正定の三男で、犬塚家に養子に来ましたが、妻に血のつながった犬塚大学の娘を娶りましたので、血脈は残りました。(大学の異母兄弟である「伊織」後の松井半吾の娘である可能性もあります。)

重世の妻


梅原弥左衛門の娘

 『近江日野町志』によれば、「梅原弥左衛門」は蒲生氏の旧臣であり、本能寺の変後、天正10年(1582)の日野城における防衛体制の中でその名が見える人物です。蒲生氏の家臣団の中では、重臣の一人として位置づけられます。

 蒲生家が会津に移封され、石高92万石の大大名となった後、梅原弥左衛門は二本松城の城代を務め、知行を与えられました。蒲生秀行期の会津支配体制において、二本松は要衝であり、同地を預けられたことから、その信任の厚さがうかがえます。

 『史籍収攬』によれば、梅原弥左衛門は慶長7年(1602)に没したと伝えられています。その子も同じく「梅原弥左衛門」を名乗りました。

 蒲生家は、氏郷、秀行、忠郷と続き、寛永4年(1627)に忠知が伊予松山へ24万石で転封となりましたが、その後後継に恵まれず、寛永11年(1634)に改易となりました。

 「梅原弥左衛門」の一族に丹羽家の家臣「梅原大膳」(一説には弟)という人物がおりキリシタン信者として投獄されています。そして、この件が「重世」が「家光」から御勘気を受け謹慎の身となった原因ではないかと推測しています。詳細は「犬塚平右衛門重世と将軍家光の御勘気」にて。

梅原弥左衛門

蒲生秀行の家臣で二本松城の城代を務める。

二本松城とは、(ウィキペディアより)

室町時代初期の興国2年/暦応4年(1341年)、室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国が塩沢・殿地が岡(「田地が岡」とも)に最初の居を構え、地名を二本松と改称し、畠山氏7代当主・二本松満泰応永21年(1414年)もしくは嘉吉年間(1441年 – 1443年)にこの地に二本松城を築いた。

以後、陸奥に定着していた二本松氏は、戦国時代になると伊達政宗の攻撃を受ける。天正13年(1585年)10月、15代当主・二本松義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出た。輝宗のもとに出向いた義継は、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺された(粟之巣の変事)。政宗はすぐに二本松城攻めを開始したが、守備側は義継の子・国王丸を継嗣に立て籠城、城は政宗の猛攻によく耐え、援軍の佐竹義重相馬義胤らが加勢に駆けつけたこともあり(人取橋の戦い)、政宗の攻撃を撃退した。しかし翌天正14年(1586年)に政宗が再度二本松城へ進軍すると内通者が出たため、7月16日に相馬義胤の口添えにより二本松城は開城、ここに二本松氏は滅亡した。

政宗は片倉景綱、次に伊達成実を二本松城代としたが、天正19年(1591年)に政宗が葛西大崎一揆の戦後処理で豊臣秀吉の命令により岩出山城に転封されると、二本松城は会津若松城蒲生氏郷の支城となった。氏郷は蒲生郷成町野重仍を城主に据えたが、慶長3年(1598年)に氏郷の子秀行が秀吉の命令で転封、代わって上杉景勝が会津に入ると城代は再度交代し下条忠親が城代となった。

上杉景勝が会津を領有した期間は短く、2年後の慶長5年(1600年)、徳川家康に敵対した景勝は関ヶ原の戦いの後に米沢城に移された。会津には蒲生秀行が復帰し、梅原弥左衛門と門屋勘右衛門が二本松城代となった。

正長

彦根犬塚家元祖 犬塚正長  通称:三十郎 求之介

     母 酒井雅楽助正親妹

     永禄十二年(1569年) 月 日生  

     寛永二十年(1643年)二月二日卒  

享年七十五才(数え年:以下同)

法名:無量院殿淨譽清安禪定門

    正長室 松居武太夫清易女  名:不詳

     元亀二年(1571年) 月 日生

     慶安元年(1648年)三月十五日卒  

享年七十三才

    法名:榮性院殿安譽壽慶大姉

「犬塚三十郎正長」(求之介)は、井伊家の家臣になって関ヶ原の戦いで、主人井伊直政に従い武功をたて、これ以降、井伊家の犬塚家は1500石の用人役(家老・中老に次ぐ地位)を代々努めました。「正長」の赤備えを身につけた雄姿は、井伊家に伝来する「関ヶ原合戦図」の屏風絵の中で直政近くに描かれています。

「花の生涯」の中に登場する「犬塚外記」は求馬之介の子孫です。

以下は、彦根歴史研究の部屋からの引用

<引用開始>
 犬塚求之介正長は、「由緒帳」「貞享異譜」によると、生国は三河で、父は旗本の犬塚太郎左衛門正忠、兄平右衛門忠次がその跡を継いで旗本の家として存続している。正長自身は箕輪で召し出されて小姓・小納戸役を務めた。関ヶ原合戦時には武功を挙げた褒美として、直政から緋縅の具足を拝領したという。
 兄、犬塚忠次は旗本で、『寛政重修諸家譜』にも記される。公儀普請奉行を務め、彦根城築城時にもたずさわったとある。 慶長七年(1602)の分限帳では、犬塚三四郎として700石取と記される。  <引用おわり>

ただし、上記の「犬塚三四郎として700石取と記される」の犬塚三四郎は、正しくは「犬塚三十郎」です。

「井伊家 犬塚求之介正長 の子孫」の方からご提供頂いた下記家系図を2つ掲載致します。

改正犬塚氏略系図

犬塚七蔵系犬塚氏四流略譜完

「犬塚亀」は、幼名です。元服前に明治維新となり、生涯幼名で通したようです。

「犬塚亀」は、天理教に入信したため、浄土真宗である善仁寺ではなく、東京都染井霊園の墓地に眠っています。

権中講義を勤めていました。明治政府は、神道国教化のために宗教官吏を設置し、その宗教官吏のことを教導職と呼びました。教導職は、敬神愛国、天理人道、皇上奉戴に基づいて説教を行いました。その他、家族倫理、文明開化、国際化、権利と義務、富国強兵についての講義が行われ、国民教育の一端を担いました。教導職には全部で14の階級があり、権中講義は10番目の階級です。

「犬塚亀」とその妻「はな」には、「犬塚喜一」、「犬塚清二」、「犬塚忠三」、「犬塚東平」の4人の男子がいました。改製原戸籍によれば、住居は、東京市神田區三河町三丁目二十八番地と記録されています。東京市神田區は現在の東京都千代田区なので、千代田区役所に「亀」の戸籍の照会に行きましたが、既に80年が経過しているため現存していませんでした。また、本所区東両国四丁目2番地の一に引っ越した記録もありましたので、墨田区役所にも除籍謄本の照会に行ったところ、昭和20年(1945年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)の際に焼失したとの通知を受けました。(本所区は現在の墨田区)

次男「犬塚清二」は、母親「はな」の実家である伊東家に養子に行かれました。「犬塚せいじ(精二?)」は、伊東家で結婚し、昭和2年に女子「みちこ」が生まれました。

「みちこ」は成長し、東京駅丸の内側にある東京中央郵便局に勤めていました。当時の東京中央郵便局は建て替えられ、現在は跡地にJPタワーが建っています。

昭和17年(1937年)に「犬塚せいじ(精二?)」は、お亡くなりになられたと言い伝えられています。

「犬塚せいじ(精二?)」の妻(名前不詳)と「みちこ」は、昭和20年(1945年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)で亡くなられたそうです。また、両人のご遺体は見つからなかったと聞いています。

伊東家は、「犬塚せいじ(精二?)」が養子に入りましたが、絶えてしまいました。「せいじ(精二?)」の墓石は、台東区元浅草3丁目にある了源寺にありましたが、昭和の終わり頃に甥たちによって、永代供養が行われ、同寺に合葬されたそうです。

「亀」の四男である「東平」の自叙伝が発見され、幕末から明治維新の頃の様子を窺うことができました。以下は祖父「小善次」や叔父「忠親」に関して、「東平」が記した内容をわかりやすく書き直したものです。恐らく父「亀」から聞いた話を記したものだと思います。

『徳川家の旗本であった犬塚家の知行は700石でした。明治政府は、すべての士族の知行を秩禄公債や金禄公債に振り替えました。これを秩禄処分と言います。「小善次」の700石の知行も公債に振り替えられました。そして「小善次」は公債を現金化して後継である「忠親」一人の教育費に充て、激しい時代の変化の中で犬塚家の存続を考えました。その甲斐があって「忠親」は通信技師になりました。ところが、残念なことに「忠親」は通信技師として小笠原諸島に赴任し、絶海の孤島暮らし故か酒で体を壊し若死してしまいました。』

上記の「東平」の自叙伝には、『「忠親」は小笠原諸島に赴任し早死した』と書かれていますが、明治30年(1897年)に「犬塚忠親」が台湾総督府の郵便電信書記に任命されたという記録が台湾の公文書館にありました。明治38年(1905年)に亡くなっているので、小笠原諸島ではなく台湾の間違えではないかと思います。

台湾国立公文書館に保存されている「忠親」の辞令

東京都公文書館には、次のような資料が保管されていました。

明治7(1874)年7月30日 貫属替達書并に送籍書受取 第五大区当番戸長塩原昌之助 第五大区浅草八幡町3番地へ入籍 浜松県犬塚忠親、曾祖母いわ、曾祖母小寿次、母よし、弟亀、姉ゑい、又従弟女ひさ

東京都公文書館資料

貫属とは、明治時代にその人がある地方自治体の管轄に属するという意味です。浜松県から東京に入籍してきた時の届出だったと考えられます。幕府崩壊後、徳川慶喜と共に多くの旗本が浜松や静岡に移り住みましが、生活に困窮し、またその多くが東京に戻ったと伝えられています。犬塚家も当主の「忠親」と共に浜松に移ったものの、東京に戻ったのだと思います。「曾祖母いわ」と書かれていますが、忠親の曾祖母は明治7年(1874年)に存命していません。そして「曽祖母小寿次」は父「小善次」の間違えだと考えます。

また、「日本紳士録」(交詢社文庫)の第二版から第五版に「忠親」が記載されています。

日本紳士録 第2版
日本紳士録 第三版
日本紳士録 第四版
日本紳士録 第五版

明治24年(1891)第二版 職業:官吏、住所:麻布区仲ノ町六 

明治29年(1896)第三版 職業:東京郵便電信局書記、年収:3,600、住所:麻布區市兵衛町二丁目四四

明治30年(1997)第四版 職業:東京郵便電信局書記、年収:3,600、住所:麻布區市兵衛町二丁目四四

明治31年(1898)第五版 職業:東京郵便電信局書記、年収:6,240、住所:麻布區市兵衛町二丁目四四

1987年に比べて1898年の年収が2倍近くになっているのは、台湾に赴任したからだと考えます。そして、第六版以降の記載がないのも台湾へ赴任したためと考えます。この「日本紳士録」の「忠親」の右には、第29代内閣総理大臣「犬養毅」が記載されています。

当時の地図で仲ノ町6と市兵衛町二丁目四四号の位置を確認
グーグルマップで当時の仲ノ町6と市兵衛町二丁目四四号を確認

そしてまた、東京都公文書館には、次のような資料が保管されていました。

東京都公文書館 検索資料1
東京都公文書館検索資料2

明治32年(1899)年2月22日 雇員採用之件 東京市役所雇を命す 但水道部庶務課勤務 犬塚忠親 履歴書

明治32年(1899)年3月3日 東京市役所雇を命す 庶務課 犬塚忠親

明治32年(1899)年3月15日 雇員解職之件 依願免雇 雇 犬塚忠親 辞職願

これらの情報をまとめると、明治維新後、「小善次」は徳川慶喜と共に浜松に移住、しかし困窮の末に東京に明治7年(1874)に戻り、明治9年(1876)に太政官布告された秩禄処分で知行を秩禄公債か金禄公債に替え、また、その公債を現金化して「忠親」の教育に努めました。約15年後の明治24年(1891)「忠親」は官吏となり、更に明治29年(1896)に東京郵便電信局書記、明治30年(1897)台湾総督府の郵便電信書記となって台湾に赴任しましたが、体を壊して東京に戻り、明治32年(1899)に東京市水道部庶務課に就職しましたが体調が回復せず退職します。また同年、「小善次」が亡くなります。そして、5年後の明治38年(1905)に「忠親」が亡くなります。

「忠親」の誕生年は不明ですが、弟の「亀」と仮に3つ違いとすると、「忠親」の推定生年は1855年となり、「犬塚忠親」は50歳ぐらいで亡くなったと考えられます。

「忠親」は、善仁寺の墓石19に父「小善次(忠良)」と共に眠っています。この墓石には、妻「き乃」と姉、「犬塚ゑ似」(「ゑ似」が忠親の姉であったことは、先述の東京都公文書館に保管されている明治7年の貫属替達書にて判明)の他に「犬塚寅」(昭和30年(1955)4月14日没)、「犬塚幹久」(昭和30年(1955)6月11日没)が眠っています。両名と「忠親」の続柄は不明ですが、一応、家系図では「忠親」の子供としておきます。

忠親の弟「亀」が記録した過去帳には、「忠親」には「犬塚金一」という長男がいて、明治23年(1890年)4月に没したと書かれています。戒名は「釋浄暁童子」ですが、墓石は未だ見つかっていません。

「亀」が保管していた過去帳 「忠親」とその長男「金一」の記載がある

妻「き乃」は、昭和12年(1923年)3月29日に亡くなっています。ちなみに、同年9月に関東大震災が起きています。同じく「犬塚亀」の誕生年から類推すると、「き乃」は60歳代で亡くなったと考えられます。

「犬塚忠親」の生年を1855年と仮定し、25歳で子供を授かったとすると、「犬塚寅」、「犬塚幹久」の生年は、1880年前後と類推できます。死亡した1955年から推定生年である1880年を差し引くと、ご両名の享年は75歳前後であると考えられます。

「犬塚寅」、「犬塚幹久」の享年が75歳であれば、結婚し子孫が生まれた可能性がありますが、その子孫の墓石は善仁寺にはありません。