12代「忠良」、通称は「小善次」でした。

安政6年(1859年)稿【旗本いろは分】によると、浅草堀田原に屋敷があったと書かれています。【寛政譜以降旗本家百科事典 第1巻】によると、拝領屋敷は浅草小指(揚)町裏通堀田豊前守上地住宅、本所菊川町と書かれています。

安政2年(1855年)書院番酒井組を務め、元治元年(1864年)11月2日より小普請になります。

神奈川県厚木市にある船子八幡神社には、徳川家康が船子八幡神社に与えた朱印状が現存しています。この朱印状を慶応元年(1865年)8月に八幡神社本殿に納めた時の添書き「奉献納添」も現存しており、そこには「忠良」が「犬塚小善次」と署名しています。船子八幡神社は、知行地であった相模國愛甲大住郡にありました。

「忠良」には、長男「鉞太郎」、次男「興四郎」、三男「忠親」、四男「亀」の男子がいました。長男「鉞太郎」、次男「興四郎」は早世したため、家督は三男「忠親」が継ぎました。

長男「鉞太郎」は天保4年(1833年)8月5日に亡くなり、文京区小石川善仁寺の墓石5番に眠っています。

次男「興四郎」は安政2年(1855年)11月24日に亡くなり、文京区小石川善仁寺の墓石5番に眠っています。

「忠良」は明治32年(1899年)12月1日に亡くなり、11代「忠邦」と共に文京区小石川の善仁寺の墓石19で眠っています。

「忠良」の妻である「美子」は、明治24年(1891年)6月9日に亡くなり、元禄16年(1703年)10月10日に亡くなられた良重の娘と一緒に文京区小石川善仁寺の墓石8番に眠っています。

また、この「忠良」の墓石には、『永代祠堂金拾圓 施主 嶋田ふみえ納 明治39年9月納』と彫られています。明治39年は1906年です。「忠良」が亡くなって7年後なので、七回忌の時に納めたのではないかと思います。嶋田ふみえ は「忠良」と「美子」の娘で嶋田家に嫁いだ方なのか、或いは「美子」の実家の方なのかも知れません。

永代祠堂とは、申込を行うと永代祠堂台帳に戒名(俗名)が記載され、永代にわたって祥月命日に回向(えこう)と呼ばれる供養が行われることの様です。

13代「忠邦」、の通称は「太郎右衛門」でした。

文政10年(1827年)稿【国字文名集】によると、浅草堀田原奥屋敷に屋敷があったと書かれています。

天保8年(1837年)に大阪で起きた大塩平八郎の乱の鎮圧に尽力したようです。森鴎外著「大塩平八郎」の「十、城」の中にその様子が次のように描かれています。

「土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つ時に定番、大番、加番、面々を呼び集めた。」「土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内所々を廻って警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取った。」「目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ手配は、日暮頃から始まつたが、はかばかしい働きも出来なかつた。」

森鴎外著「大塩平八郎」詳しくはこちら 

https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2298_16910.html

また、別の文献では、天保14年(1843年)1月25日に書院番進物番より御使番となりました。弘化2年(1845年)大阪城目付代であったと書かれています。

詳しくは こちらをご参照下さい。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000212686

大阪城の防備は、徳川譜代の1-2万石の大名が1年交代で城代・定番・加番を務め、また、大番は旗本が務めた様です。忠邦が務めた目付は、老中から直接命令を受けた監察であったそうです。詳しくは「大阪城の衛戌勤番制度」今井 貫一 氏著こちら
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/imai.htm

国立国会図書館所蔵の嘉永武鑑(嘉永:1848年から1853年まで)を調べると、「犬塚太郎右衛門」は、御使番衆、菊の間、布衣、700石と書かれています。

「忠邦」には、「政次郎」「音吉」「三七郎将順」「小善次」の4人の男子がいましたが、「政次郎」「音吉」「三七郎将順」が早世したため家督は四男の「小善次」が継ぎました。

長男「政次郎」は文政5年(1822年)12月25日に亡くなりました。

次男「音吉」は天保2年(1831年)に亡くなりました。

ご両人とも「忠邦」の妻、「忠良」の子供と同じ墓石5番で眠っています。

三男「三七郎将順」は、1849年に亡くなり、叔父「犬塚忠行」や「犬塚福詞」と共に墓石6番で眠っています。

「犬塚忠邦」は嘉永5年(1852年)2月9日に亡くなり墓石19で眠っています。

10代の「忠盈」、通称は「寛之丞」でした。小普請でした。

「忠休」の長男「犬塚忠行」は早世し家督を継ぐ男子がいませんでした。そこで、家督は次男の「犬塚忠盈」(寛之丞)が継ぎました。「犬塚忠盈」には男子がいましたが、いずれも早世しました。(「忠盈」の子供のうち次男「十之助信成」は、9代「忠暉」の墓石7番で眠っています。)そこで、「犬塚忠盈」は末弟の「犬塚忠邦」を自分の養子として家督を継がせました。「犬塚忠盈」は元治元年(1864年)3月23日に亡くなり墓石18で眠っています。

11代「忠行」、通称は「小善次」、「万太郎」でした。残念ながら【寛政重修諸家請 千七十七】には、任命した役職などの記述がありませんので不明です。「忠行」は寛政11年(1799年)8月19日に亡くなり、墓石6番で弟「福詞」、甥「三七郎将順」と共に眠っています。

【寛政重修諸家請 千七十七】の記述は「忠行」までなので、」この先は、実際に善仁寺の墓石に刻まれている文字の解読になります。

9代「忠休」、通称は「平右衛門」、「隼人」でした。 文化元年(1804年)【懐中道しるべ】によると屋敷は牛込早稲田にありました。

「忠暁」は世継ぎが早世しため「忠暉」を養子にしましたが、その「忠暉」も早世し、改めて堀川兵部大輔廣益の五男を養子にして「忠休」とし、さらに齋藤次左衛門利武の娘を養女にして「忠休」の妻としました。夫婦ともに他家からの養子であったため、家祖「忠吉」からの血縁はここで絶えることになります。

安永4年(1775年)12月18日に「忠休」は将軍に拝謁しました。浚明院(徳川家治)に仕え、安永7年(1778年)11月5日、24歳の時に家督を相続しました。天明元年(1781年)8月22日に御小姓組番士となります。「忠休」は寛政12年(1800年)7月6日に享年52歳で亡くなりました。墓石1番で眠っています。

この時代に幕府は、「寛政重修諸家譜」を編纂するためにの史料の提出を大名や旗本に命じました。「忠休」の大きな功績の一つは、『犬塚平右衛門先祖書』を取り纏め幕府に提出したことです。幕府が「寛政重修諸家譜」の編纂を開始したのは1799年(寛政11)なので、その時には、家祖「忠吉」の血を引いた先代「忠暉」や先々代「忠暁」はすでに亡くなっていました。代々語り継がれたであろう物語を聞く術も無く、また、恐らく家宝にどんな由縁があるのかもわからず、系譜とその資料を取り纏めるのは大変な苦労だったと思います。その上、「忠休」の長男「忠行」は1799年(寛政11)に亡くなっています。長男の早世の悲しみの中で堀川家から来た「忠休」が犬塚家の諸家系譜を纏めてくれたと思うと、とても切ない思いがします。恐らく心労もあったのだと思いますが、先述の通り「忠行」が亡くなった翌年1800年(寛政12)に52歳で「忠休」は亡くなりました。「忠休」が書き残した『犬塚平右衛門先祖書』は、筑波大学付属中央図書館に保管されています。

「忠休」の実父、堀川兵部大輔廣益は、江戸時代中期の高家旗本でした。高家とは、儀式や典礼を司る役職で、高家職に就くことのできる旗本(高家旗本)は、主に著名な守護大名・戦国大名の子孫や公家の分家など、いわゆる「名門」(原義の「高家」)の家柄です。堀川家は、その子供「広之」の代に苗字を「有馬」に代え幕末まで高家を務めて行きます。

堀川兵部大輔廣益の父親は権中納言の久我通名で、母親は西園寺公満の娘でした。西園寺家の家系を遡って行くと、前田利家や明智光秀、ガラシャ、細川藤孝などの歴史上の人物に繋がります。また、西園寺家の家系を下ると天皇家に繋がり、血筋は大分薄いですが我々と繋がっています。堀川家の家系図はこちら。

「忠休」には、長男「忠行」の他に、次男「寛之丞」、三男「健三郎」、四男「福司」、五男「忠邦」の5人の男子がいました。長男「忠行」が家督を継いだ後、次男「寛之丞」が家督を継ぎ、さらに五男「忠邦」が家督を継ぐことになります。【寛政重修諸家請 千七十七】に「忠邦」の名前がありませんので、「忠邦」は【寛政重修諸家請 千七十七】編纂後に生まれたと考えます。

恐らく、「健三郎」諱(いみな)は「興行」は、1853年に亡くなり墓石15番に、そして「福詞」諱は「克敏」は、1849年に亡くなり長兄「忠行」や甥「三七郎将順」と共に墓石6番に眠っています。

9代「忠暉」(ただあきら、或いは、ただてる)、通称「勝五郎」でした。「忠暁」には家を継ぐ子供がいませんでしたので、明和5年(1768年)戌子年10月24日に齋藤次左衛門利武の三男「忠暉」を養子に迎えました。明和6年(1769年)10月15日に将軍である浚明院(徳川家治)に拝謁し仕えました。しかしながら、「犬塚忠暉」は安永3年(1774年)8月16日に父親である「犬塚忠曉」よりも先に亡くなってしまいました。享年22歳でした。墓石7番で眠っています。

8代「忠暁」(ただあき)、通称は「平右衛門」、「万太郎」、「七蔵」でした。

享保5年(1720年)11月23日江戸に生まれました。

延享4年(1745年)12月24日に父「忠倫」の跡目を継ぐため酒井雅樂頭殿に伝え、小普請松下嘉兵衛の支配下となりました。

延享5年(1745年)3月28日に徳川家重(惇信院)に拝謁し正式に跡目を継ぎました。

寛延2年(1749年)2月23日に御書院番となり、曽我伊賀守組に入りました。

寶暦9年(1759年)11月15日 に山吹の間に召され徳川家重に拝謁し御番改めを仰せつけられました。また、翌16日に精勤が認められ上意により番頭大久保豊前守から金一枚を頂き、駿府在番を三度努めました。

宝暦11年(1761年)駿府在番の任期を残し江戸に戻ります。

安永4年(1775年)8月25日に太田駿河守組支配となり同組番頭となりました。そして同年12月11日布衣の許可を田沼殿主頭殿より伝えられました。

安永4年(1778年)12月18日に「隼人、忠休」を養子にします。

安永5年(1776年)7月21日に渋谷隠岐守組与頭川勝平左衛門が駿府在番において頓死したため、組替えが行われ後任として7月26日に駿府に参着しまし、同年10月15日に江戸に戻り徳川家重に拝謁しました。

安永7年(1778年)8月19日に59歳で亡くなりました。法名は「心光院信暁」です。墓石4番で眠っています。

7代「忠倫」、通称は「平右衛門」、「真之丞」です。「喜八郎」という兄がいましたが、早世したため「忠倫」が正徳3年(1713年)4月23日に家督を相続し、同年5月20日に将軍である有章院(徳川家継)に拝謁しましたが、享保1年(1715年)8月に将軍が徳川吉宗に代わりました。享保3年(1718年)3月16日より小姓組に列しました。享保9年(1722年)11月15日より江戸城二ノ丸に出仕し、享保10年(1725年)6月1日から西ノ丸の御書院番になりました。「忠倫」は延享4年(1747年)11月30日に亡くなり、享年68歳でした。法名は「一歩」、墓石2番で眠っています。戒名は不遠院殿釋白道一歩です。

6代「良重」、通称は「太郎兵衛」「平右衛門」「平兵衛」です。延寶5年(1677年)12月12日に家督を継ぎ、天和元年(1681年)2月26日に御小姓組番に列し、元禄5年(1692年)7月16日に御小姓組番頭を辞め、正徳3年(1713年)4月23日に隠居しました。「犬塚良重」は享保12年(1727年)2月26日に亡くなり、享年73歳でした。法名は「良人」、墓石3番で眠っています。戒名は普照院殿釋良人です。

「犬塚良重」の墓石は、儒官である「深尾権左衛門泰元」が書いた次のような漢詩が刻まれています。


銘云其辞日(墓石は次のように語っている)

皇矣鈴稲(皇室の繁栄に尽くし)

世禄善道(善道で家を守り伝え)

以彰以盛(家名を盛り上げ)

貽謀其浩(子孫繁栄に尽くす)

また、この墓石の裏には、次のようなことも刻まれています。

【以下訳文】

犬塚定長(良重)は藤原氏の血筋を引く人で、その祖先は三河にいました。徳川家康が幕府を開く時、尽力した平右衛門忠次(諡は宗句)は、慶長の時代に徳川家康の下で御使番や御普請奉行を長年に渡り務めました。その忠次の三世となる平衛門重定(忠世)、その嫡子が定長(良重)になります。定長は家に伝わる蔵書で楠流を学んだ後、小笠原流諸家の軍礼や弓術を学び、長年、日置流馬術の八條流を学び、上原太郎左衛門によって日置家奥義である八條流「剣術取り手の技」の免許を皆伝されました。師事して和歌、華道を学び、酒宴を開いて将棋、歌唱を楽しみました。古器や古書画の真贋を見極めることも出来ました。天和元年辛酉2月26日に御小姓組番に列し、元禄5年7月16日に体調を崩して御小姓組番を辞職し家督を嫡子平衛門(忠倫)に譲り、隠居して在家僧侶となって「良入」を名乗り趣味を楽しみました。そして享保12年2月16日73歳でなくなりました。亡くなってしまった父、定長が長年語ってくれた経義の教えを学ぶには、父とねんごろに過ごした時間が短すぎました。嫡子である忠倫は、亡くなった父の遺志を受け、その父の人生を墓石に記録します。

良重の娘は、旗本の梶川秀進に嫁いでいます。この「秀進」の父「頼照」は、忠臣蔵で有名な「浅野内匠頭」が、松の廊下で「吉良上野介」に切りつけた時、「浅野内匠頭」を取り押さえた人物です。「頼照」は取り押さえた功績で加増されています。詳細はこちら


https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/hatamoto-kajikawa

5代「忠世」、通称は「平右衛門」、「小善次」です。「重定」という名もあった様です。父の「重世」には家を継ぐ男子がいませんでしたので、青木小右衛門正完の三男を養子に入れ「忠世」となります。

寛政重修諸家譜1077巻には、「重世やしない子とす。実は青木小右衛門正定が子なり。青木氏の系図別に出す。」と書かれているので、かなり小さい頃から「重世」によって育てられたと思われます。また、実母、つまり、青木小右衛門正定の妻は、飯室次郎兵衛昌喜の娘であったと書かれています。

「忠世」は養子ですが、4代「重世」の項で書きました通り、「重世」の弟である松井半吾元真の娘が「忠世」の妻になっていますので、血筋は繋がっています。

寛永16年(1639年)11月6日から大献院(徳川家光)に仕えはじめ、寛永17年(1940年)3月19日に御小姓組に列しましたが、先述の通り、寛永19年(1642年)11月1日に父親の「重世」が徳川家光の御勘気を被ったため、父と共に慶安4年(1651年)10月17日まで閉門を命じられます。父「重世」と共に約9年間不遇な生活が続きました。明暦元年(1655年)11月25日に家督を相続し、御小姓組番頭を辞した後、小普請を賜り、延寶5年(1677年)12月12日に隠居しました。「忠世」は元禄9年(1696年)正月6日に亡くなり、享年80歳でした。法名は「遊斎」です。

墓石11番で眠っています。戒名は元了院殿釋遊斎です。

「忠世」の墓石の裏には、次のようなことが刻まれています。

一 父 犬 塚 平 右 衛 門 尉 重 定 法 名 遊 斎 生 子 主 日 本 氏 家 而
彰 育 于 祖 父 先 年 平 右 衛 門 尉 重 世 法 名 宗 休 孝 思 深 窹 寐
䉆 行 盖 枔 定 有 而 長 受 明 暦 元 乙 未 歳 養 家 禄 継 犬 塚
之 氏 而 奉
幕 下 忠 良 抜 郡 而 吐 哺 武 事 堅 持 而 志 誌 縉 徳 澤 興 枔
家 門 元 勲 末 柃 宗 祖 可 譜 書 善 書 焉 終 包 寛 丈
五 乙 巳 年 致 仕 予 亦 續 三 世 之 餘 緒 重 荷 惠 情 深 涼 同 心 澤
而 今 歳 丙 子 孟 春 六 八 十 四 歳 以 天 然 而 仙 遊 住 事 断 䐧 迅 景 呑
壱 白 髪 暫 存 如 雷 露 青 山 長 月 有 霞 烟 誠 死 生 有 命 空 拭
涙 㾗 杸 毫 追 時       犬 塚 平 兵 衛 尉 良 重 謹 誌     

【以下訳文】

父、犬塚平右衛門重定(忠世)の法名は遊斎で日本の名家に生まれました。重定(忠世)を育てた父は、平右衛門重世で法名は宗林でした。重世は、蔦が枝葉を徐々に覆っていく様に物事を深く静かに思考する聡明な人で、明暦元年乙未の年に家禄と犬塚の家名を重定(忠世)に譲りました。重定(忠世)は、徳川幕府の中で抜群の忠義を尽くし、武芸の鍛錬を怠らず、また祖先の功績を収集し書き記しました。延寶5年に役目を辞し、重責から開放される涼やかな思いと、それを三世(良重)が引き継ぐ苦労を思い遣りながら家督を譲りました。騒がしい俗世間のことから離れ悠然と暮らしていましたが、今年の孟春(1月)6日に84歳で亡くなりました。三日月が出ている深い山々には霞がけむり、今、そこに景色を飲み込む一条の白髪のような稲光が走りました。誠に生と死の間に命があります。涙を拭った痕に筆を走らせています。犬塚平兵衛良重が謹誌。

「忠世」には3人の娘がありました。

長女は、大御番北条伊勢守組 坪内平左衛門定経に嫁ぎました。

次女は、御小姓組加々爪甲斐守組 高林興五右衛門昌近に嫁ぎました。

三女は、二之丸御廣敷番頭 榊原左大夫政澄に嫁ぎました。

「近世都市江戸の社会構造」(岩淵令次 著)の 第二章 近世中、後期江戸の「家守の町中」の実像 で、忠世が日本橋通壱丁目付近(現在のコレド日本橋付近)に町屋敷を所有していたという記述があります。



岩淵氏は、忠世がこの時期、将軍家光の勘気を被っていたので、忠世自身が住んでいた可能性があると一旦、考察していますが、犬塚家は一番町(現在のインド大使館付近)に屋敷を賜っていたので、結論通り賃貸に出していたと思います。また、忠世が亡くなった後、名義は坪内平右衛門定経に嫁いだ長女になったと記述されています。旗本である忠世が、町屋敷を所有し賃貸業を営んでいたのであれば、何とも興味深いことです。