「犬塚亀」は、幼名です。元服前に明治維新となり、生涯幼名で通したようです。

「犬塚亀」は、天理教に入信したため、浄土真宗である善仁寺ではなく、東京都染井霊園の墓地に眠っています。

権中講義を勤めていました。明治政府は、神道国教化のために宗教官吏を設置し、その宗教官吏のことを教導職と呼びました。教導職は、敬神愛国、天理人道、皇上奉戴に基づいて説教を行いました。その他、家族倫理、文明開化、国際化、権利と義務、富国強兵についての講義が行われ、国民教育の一端を担いました。教導職には全部で14の階級があり、権中講義は10番目の階級です。

「犬塚亀」とその妻「はな」には、「犬塚喜一」、「犬塚清二」、「犬塚忠三」、「犬塚東平」の4人の男子がいました。改製原戸籍によれば、住居は、東京市神田區三河町三丁目二十八番地と記録されています。東京市神田區は現在の東京都千代田区なので、千代田区役所に「亀」の戸籍の照会に行きましたが、既に80年が経過しているため現存していませんでした。また、本所区東両国四丁目2番地の一に引っ越した記録もありましたので、墨田区役所にも除籍謄本の照会に行ったところ、昭和20年(1945年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)の際に焼失したとの通知を受けました。(本所区は現在の墨田区)

次男「犬塚清二」は、母親「はな」の実家である伊東家に養子に行かれました。「犬塚せいじ(精二?)」は、伊東家で結婚し、昭和2年に女子「みちこ」が生まれました。

「みちこ」は成長し、東京駅丸の内側にある東京中央郵便局に勤めていました。当時の東京中央郵便局は建て替えられ、現在は跡地にJPタワーが建っています。

昭和17年(1937年)に「犬塚せいじ(精二?)」は、お亡くなりになられたと言い伝えられています。

「犬塚せいじ(精二?)」の妻(名前不詳)と「みちこ」は、昭和20年(1945年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)で亡くなられたそうです。また、両人のご遺体は見つからなかったと聞いています。

伊東家は、「犬塚せいじ(精二?)」が養子に入りましたが、絶えてしまいました。「せいじ(精二?)」の墓石は、台東区元浅草3丁目にある了源寺にありましたが、昭和の終わり頃に甥たちによって、永代供養が行われ、同寺に合葬されたそうです。

「亀」の四男である「東平」の自叙伝が発見され、幕末から明治維新の頃の様子を窺うことができました。以下は祖父「小善次」や叔父「忠親」に関して、「東平」が記した内容をわかりやすく書き直したものです。恐らく父「亀」から聞いた話を記したものだと思います。

『徳川家の旗本であった犬塚家の知行は700石でした。明治政府は、すべての士族の知行を秩禄公債や金禄公債に振り替えました。これを秩禄処分と言います。「小善次」の700石の知行も公債に振り替えられました。そして「小善次」は公債を現金化して後継である「忠親」一人の教育費に充て、激しい時代の変化の中で犬塚家の存続を考えました。その甲斐があって「忠親」は通信技師になりました。ところが、残念なことに「忠親」は通信技師として小笠原諸島に赴任し、絶海の孤島暮らし故か酒で体を壊し若死してしまいました。』

上記の「東平」の自叙伝には、『「忠親」は小笠原諸島に赴任し早死した』と書かれていますが、明治30年(1897年)に「犬塚忠親」が台湾総督府の郵便電信書記に任命されたという記録が台湾の公文書館にありました。明治38年(1905年)に亡くなっているので、小笠原諸島ではなく台湾の間違えではないかと思います。

台湾国立公文書館に保存されている「忠親」の辞令

東京都公文書館には、次のような資料が保管されていました。

明治7(1874)年7月30日 貫属替達書并に送籍書受取 第五大区当番戸長塩原昌之助 第五大区浅草八幡町3番地へ入籍 浜松県犬塚忠親、曾祖母いわ、曾祖母小寿次、母よし、弟亀、姉ゑい、又従弟女ひさ

東京都公文書館資料

貫属とは、明治時代にその人がある地方自治体の管轄に属するという意味です。浜松県から東京に入籍してきた時の届出だったと考えられます。幕府崩壊後、徳川慶喜と共に多くの旗本が浜松や静岡に移り住みましが、生活に困窮し、またその多くが東京に戻ったと伝えられています。犬塚家も当主の「忠親」と共に浜松に移ったものの、東京に戻ったのだと思います。「曾祖母いわ」と書かれていますが、忠親の曾祖母は明治7年(1874年)に存命していません。そして「曽祖母小寿次」は父「小善次」の間違えだと考えます。

また、「日本紳士録」(交詢社文庫)の第二版から第五版に「忠親」が記載されています。

日本紳士録 第2版
日本紳士録 第三版
日本紳士録 第四版
日本紳士録 第五版

明治24年(1891)第二版 職業:官吏、住所:麻布区仲ノ町六 

明治29年(1896)第三版 職業:東京郵便電信局書記、年収:3,600、住所:麻布區市兵衛町二丁目四四

明治30年(1997)第四版 職業:東京郵便電信局書記、年収:3,600、住所:麻布區市兵衛町二丁目四四

明治31年(1898)第五版 職業:東京郵便電信局書記、年収:6,240、住所:麻布區市兵衛町二丁目四四

1987年に比べて1898年の年収が2倍近くになっているのは、台湾に赴任したからだと考えます。そして、第六版以降の記載がないのも台湾へ赴任したためと考えます。この「日本紳士録」の「忠親」の右には、第29代内閣総理大臣「犬養毅」が記載されています。

当時の地図で仲ノ町6と市兵衛町二丁目四四号の位置を確認
グーグルマップで当時の仲ノ町6と市兵衛町二丁目四四号を確認

そしてまた、東京都公文書館には、次のような資料が保管されていました。

東京都公文書館 検索資料1
東京都公文書館検索資料2

明治32年(1899)年2月22日 雇員採用之件 東京市役所雇を命す 但水道部庶務課勤務 犬塚忠親 履歴書

明治32年(1899)年3月3日 東京市役所雇を命す 庶務課 犬塚忠親

明治32年(1899)年3月15日 雇員解職之件 依願免雇 雇 犬塚忠親 辞職願

これらの情報をまとめると、明治維新後、「小善次」は徳川慶喜と共に浜松に移住、しかし困窮の末に東京に明治7年(1874)に戻り、明治9年(1876)に太政官布告された秩禄処分で知行を秩禄公債か金禄公債に替え、また、その公債を現金化して「忠親」の教育に努めた。約15年後の明治24年(1891)「忠親」は官吏となり、更に明治29年(1896)に東京郵便電信局書記、明治30年(1897)台湾総督府の郵便電信書記となって台湾に赴任したが、体を壊して東京に戻り、明治32年(1899)に東京市水道部庶務課に就職したが体調が回復せず退職する。また同年、「小善次」が亡くなる。そして、5年後の明治38年(1905)に「忠親」が亡くなった。

「犬塚忠親」の誕生年は不明ですが、弟の「亀」と仮に3つ違いとすると、「忠親」の推定生年は1855年となり、「犬塚忠親」は50歳ぐらいで亡くなったと考えられます。

「犬塚忠親」は、善仁寺のBの墓石に父「小善次(忠良)」と共に眠っています。この墓石には、妻「き乃」と姉、「犬塚ゑ似」(「ゑ似」が忠親の姉であったことは、先述の東京都公文書館に保管されている明治7年の貫属替達書にて判明)の他に「犬塚寅」(昭和30年(1955)4月14日没)、「犬塚幹久」(昭和30年(1955)6月11日没)が眠っています。両名と「忠親」の続柄は不明ですが、一応、家系図では「忠親」の子供としておきます。

忠親の弟「亀」が記録した過去帳には、「忠親」には「犬塚金一」という長男がいて、明治23年(1890年)4月に没したと書かれています。戒名は「釋浄暁童子」ですが、墓石は未だ見つかっていません。

「亀」が保管していた過去帳 「忠親」とその長男「金一」の記載がある

妻「き乃」は、昭和12年(1923年)3月29日に亡くなっています。ちなみに、同年9月に関東大震災が起きています。同じく「犬塚亀」の誕生年から類推すると、「き乃」は60歳代で亡くなったと考えられます。

「犬塚忠親」の生年を1855年と仮定し、25歳で子供を授かったとすると、「犬塚寅」、「犬塚幹久」の生年は、1880年前後と類推できます。死亡した1955年から推定生年である1880年を差し引くと、ご両名の享年は75歳前後であると考えられます。

「犬塚寅」、「犬塚幹久」の享年が75歳であれば、結婚し子孫が生まれた可能性がありますが、その子孫の墓石は善仁寺にはありません。

14代「犬塚忠良」、通称は「犬塚小善次」でした。

安政6年(1859年)稿【旗本いろは分】によると、浅草堀田原に屋敷があったと書かれています。【寛政譜以降旗本家百科事典 第1巻】によると、拝領屋敷は浅草小指(揚)町裏通堀田豊前守上地住宅、本所菊川町と書かれています。

安政2年(1855年)書院番酒井組を務め、元治元年(1864年)11月2日より小普請になります。

神奈川県厚木市にある船子八幡神社には、徳川家康が船子八幡神社に与えた朱印状が現存しています。この朱印状を慶応元年(1865年)8月に八幡神社本殿に納めた時の添書き「奉献納添」も現存しており、そこには「犬塚忠良」が「犬塚小善次」と署名しています。船子八幡神社は、知行地であった相模國愛甲大住郡にありました。

「犬塚忠良」には、長男「犬塚鉞太郎」、次男「犬塚興四郎」、三男「犬塚忠親」、四男「犬塚亀」の男子がいました。長男「犬塚鉞太郎」、次男「犬塚興四郎」は早世したため、家督は三男「犬塚忠親」が継ぎました。

長男「犬塚鉞太郎」は天保4年(1833年)8月5日に亡くなり、文京区小石川善仁寺の墓石5番に眠っています。

次男「犬塚興四郎」は安政2年(1855年)11月24日に亡くなり、文京区小石川善仁寺の墓石5番に眠っています。

「犬塚忠良」は明治32年(1899年)12月1日に亡くなり、13代「犬塚忠邦」と共に文京区小石川の善仁寺の墓石Bで眠っています。

「犬塚忠良」の妻である「美子」は、明治24年(1891年)6月9日に亡くなり、元禄16年(1703年)10月10日に亡くなられた良重の娘と一緒に文京区小石川善仁寺の墓石8番に眠っています。

また、この「犬塚忠良」の墓石には、『永代祠堂金拾圓 施主 嶋田ふみえ納 明治39年9月納』と彫られています。明治39年は1906年です。「忠良」が亡くなって7年後なので、七回忌の時に納めたのではないかと思います。嶋田ふみえ は「忠良」と「美子」の娘で嶋田家に嫁いだ方なのかも知れません。

永代祠堂とは、申込を行うと永代祠堂台帳に戒名(俗名)が記載され、永代にわたって祥月命日に回向(えこう)と呼ばれる供養が行われることの様です。

13代「忠邦」、の通称は「太郎右衛門」でした。

文政10年(1827年)稿【国字文名集】によると、浅草堀田原奥屋敷に屋敷があったと書かれています。

天保8年(1837年)に大阪で起きた大塩平八郎の乱の鎮圧に尽力したようです。森鴎外著「大塩平八郎」の「十、城」中にその様子が次のように描かれています。

「土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つ時に定番、大番、加番、面々を呼び集めた。」「土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内所々を廻って警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取った。」「目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ手配は、日暮頃から始まつたが、はかばかしい働きも出来なかつた。」

森鴎外著「大塩平八郎」詳しくはこちら 

https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2298_16910.html

また、別の文献では、天保14年(1843年)1月25日書院番進物番より御使番となりました。弘化2年(1845年)大阪城目付代であったと書かれています。

詳しくはこちら

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000212686

大阪城の防備は、徳川譜代の1-2万石の大名が1年交代で城代・定番・加番を務め、また、大番は旗本が務めた様です。忠邦が務めた目付は、老中から直接命令を受けた監察であったそうです。詳しくはこちら

http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/imai.htm

国立国会図書館所蔵の嘉永武鑑(嘉永:1848年から1853年まで)を調べると、「犬塚太郎右衛門」は、御使番衆、菊の間、布衣、700石と書かれています。

墓石には『始祖「忠吉」十一世之孫』と刻まれています。私の調査では「忠邦」は13代目に当たるのですが、「犬塚忠吉」から数えて11代目の「犬塚忠行」の孫は「犬塚忠邦」である、という解釈をすると合致します。

「犬塚忠邦」には、「政次郎」「音吉」「三七郎将順」「小善次」の4人の男子がいましたが、「政次郎」「音吉」「三七郎将順」が早世したため家督は四男の「小善次」が継ぎました。

長男「政次郎」は文政5年(1822年)12月25日に亡くなりました。

次男「音吉」は天保2年(1831年)に亡くなりました。

ご両人とも「忠邦」の妻、「忠良」の子供と同じ墓石5番で眠っています。

三男「三七郎将順」は、1849年に亡くなり、叔父「犬塚忠行」や「犬塚福詞」と共に墓石6番で眠っています。

「犬塚忠邦」は嘉永5年(1852年)2月9日に亡くなり墓石Bで眠っています。

12代の「忠盈」、通称は「寛之丞」でした。小普請でした。

11代の「犬塚忠行」には家督を継ぐ男子がいませんでした。そこで、家督は次男の「犬塚忠盈」(寛之丞)が継ぎました。「犬塚忠盈」には男子がいましたが、いずれも早世しました。(「忠盈」の子供のうち次男「十之助信成」は、9代「忠暉」の墓石7番で眠っています。)そこで、「犬塚忠盈」は末弟の「犬塚忠邦」を自分の養子として家督を継がせました。「犬塚忠盈」は元治元年(1864年)3月23日に亡くなり墓石Aで眠っています。

11代「忠行」、通称は「小善次」、「万太郎」でした。残念ながら【寛政重修諸家請 千七十七】には、任命した役職などの記述がありませんので不明です。「忠行」は寛政11年(1799年)8月19日に亡くなり、墓石6番で弟「福詞」、甥「三七郎将順」と共に眠っています。

【寛政重修諸家請 千七十七】の記述は「忠行」までなので、」この先は、実際に善仁寺の墓石に刻まれている文字の解読になります。

10代「忠休」、通称は「平右衛門」、「隼人」でした。 文化元年(1804年)【懐中道しるべ】によると屋敷は牛込早稲田にありました。

「犬塚忠曉」には家を継ぐ子供がいなかったため「犬塚忠暉」を養子にしましたが、その「犬塚忠暉」が早世したため、改めて堀川兵部大輔廣益の五男を「犬塚忠曉」の養子にして「犬塚忠休」とし、また齋藤次左衛門利武の娘も「犬塚忠曉」の養子にして「犬塚忠休」の妻としました。夫婦ともに他家からの養子であったため、家祖「犬塚忠吉」からの血縁はここで絶えることになります。

安永4年(1775年)12月18日に将軍に拝謁しました。浚明院(徳川家治)に仕え、安永7年(1778年)11月5日、24歳の時に家督を相続しました。天明元年(1781年)8月22日に御小姓組番士となります。「犬塚忠休」は寛政12年(1800年)7月6日に亡くなり、享年52歳でした。墓石1番で眠っています。

この時代に幕府は、「寛政重修諸家譜」を編纂するためにの史料の提出を大名や旗本に命じました。「忠休」の大きな功績の一つは、犬塚家の系譜とその資料(諸家系譜)を取り纏め幕府に提出したことだと思います。幕府が「寛政重修諸家譜」の編纂を開始したのは1799年(寛政11)なので、その時には、家祖「忠吉」の血を引いた先代「忠暉」や先々代「忠暁」はすでに亡くなっていて、代々語り継がれた物語を聞く相手もいず、また、恐らく家宝にどんな由縁があるのかもわからず、系譜とその資料を取り纏めるのは大変な苦労だったと思います。その上、「忠休」の長男「忠行」は1799年(寛政11)に亡くなっています。長男の早世の悲しみの中で堀川家から来た「忠休」が犬塚家の諸家系譜を纏めてくれたと思うと、とても切ない思いがします。恐らく心労もあったのだと思いますが、先述の通りその翌年1800年(寛政12)に52歳で「忠休」は亡くなりました。

「犬塚忠休」の実父、堀川兵部大輔廣益は、江戸時代中期の高家旗本でした。高家とは、儀式や典礼を司る役職で、高家職に就くことのできる旗本(高家旗本)は、主に著名な守護大名・戦国大名の子孫や公家の分家など、いわゆる「名門」(原義の「高家」)の家柄でした。堀川家は、その子供「広之」の代に苗字を有馬に代え幕末まで高家を務めて行きます。

堀川兵部大輔廣益の父親は権中納言の久我通名で、母親は西園寺公満の娘でした。西園寺家の家系を遡って行くと、前田利家や明智光秀、ガラシャ、細川藤孝などの歴史上の人物に繋がります。また、西園寺家の家系を下ると天皇家に繋がり、血筋は大分薄いですが我々と繋がっています。堀川家の家系図はこちら。

「犬塚忠休」には、長男「忠行」の他に、次男「寛之丞」、三男「健三郎」、四男「福司」、五男「忠邦」の5人の男子がいました。長男「忠行」が家督を継いだ後、次男「寛之丞」が家督を継ぎ、さらに五男「忠邦」が家督を継ぐことになります。【寛政重修諸家請 千七十七】に「忠邦」の名前がありませんので、「忠邦」は【寛政重修諸家請 千七十七】編纂後に生まれたと考えます。

恐らく、男子がいなかったため家督を継がなかった「健三郎」諱(いみな)は「興行」は、1853年に亡くなり墓石15番に、そして「福詞」諱は「克敏」は、1849年に亡くなり長兄「忠行」や甥「三七郎将順」と共に墓石6番に眠っています。

9代「忠暉」(ただあきら、或いは、ただてる)、通称「勝五郎」でした。「忠曉」には家を継ぐ子供がいませんでしたので、齋藤次左衛門利武の三男を養子にしました。明和6年(1769年)10月15日に将軍である浚明院(徳川家治)に拝謁し仕えました。しかしながら、「犬塚忠暉」は安永3年(1774年)8月16日に父親である「犬塚忠曉」よりも先に亡くなってしまいました。享年22歳でした。墓石7番で眠っています。

8代「忠曉」(ただとし)、通称は「平右衛門」、「万太郎」、「七蔵」でした。延享4年(1747年)12月24日に家督を継ぎ、寛延元年(1748年)3月26日に惇信院(徳川家重)に拝謁し、寛延2年(1749年)3月22日に御書院番となりました。寶暦9年(1759年)12月15日 黄金1枚を賜わり、安永4年(1775年)8月25日に組み改となり、同年12月11日に布衣を許されました。「忠曉」は安永7年(1778年)8月19日に亡くなり、享年59歳で、法名は「信曉」でした。墓石4番で眠っています。

7代「忠倫」、通称は「平右衛門」、「真之丞」です。「喜八郎」という兄がいましたが、早世したため「忠倫」が正徳3年(1713年)4月23日に家督を相続し、同年5月20日に将軍である有章院(徳川家継)に拝謁しましたが、享保1年(1715年)8月に将軍が徳川吉宗に代わりました。享保3年(1718年)3月16日より小姓組に列しました。享保9年(1722年)11月15日より江戸城二ノ丸に出仕し、享保10年(1725年)6月1日から西ノ丸の御書院番になりました。「忠倫」は延享4年(1747年)11月30日に亡くなり、享年68歳でした。法名は「一歩」、墓石2番で眠っています。戒名は不遠院殿釋白道一歩です。