6代「良重」、通称は「太郎兵衛」「平右衛門」「平兵衛」です。延寶5年(1677年)12月12日に家督を継ぎ、天和元年(1681年)2月26日に御小姓組番に列し、元禄5年(1692年)7月16日に御小姓組番を辞め、正徳3年(1713年)4月23日に隠居しました。「犬塚良重」は享保12年(1727年)2月26日に亡くなり、享年73歳でした。法名は「良人」、墓石3番で眠っています。戒名は普照院殿釋良人です。

「犬塚良重」の墓石は、儒官である「深尾権左衛門泰元」が書いた次のような漢詩が刻まれています。


銘云其辞日(墓石は次のように語っている)

皇矣鈴稲(皇室の繁栄に尽くし)

世禄善道(善道で家を守り伝え)

以彰以盛(家名を盛り上げ)

貽謀其浩(子孫繁栄に尽くす)

また、この墓石の裏には、次のようなことも刻まれています。

【以下訳文】

犬塚定長(良重)は藤原氏の血筋を引く人で、その祖先は三河にいました。徳川家康が幕府を開く時、尽力した平右衛門忠次(諡は宗句)は、慶長の時代に徳川家康の下で御使番や御普請奉行を長年に渡り務めました。その忠次の三世となる平衛門重定(忠世)、その嫡子が定長(良重)になります。定長は家に伝わる蔵書で楠流を学んだ後、小笠原流諸家の軍礼や弓術を学び、長年、日置流馬術の八條流を学び、上原太郎左衛門によって日置家奥義である八條流「剣術取り手の技」の免許を皆伝されました。師事して和歌、華道を学び、酒宴を開いて将棋、歌唱を楽しみました。古器や古書画の真贋を見極めることも出来ました。天和元年辛酉2月26日に御小姓組番に列し、元禄5年7月16日に体調を崩して御小姓組番を辞職し家督を嫡子平衛門(忠倫)に譲り、隠居して在家僧侶となって「良入」を名乗り趣味を楽しみました。そして享保12年2月16日73歳でなくなりました。亡くなってしまった父、定長が長年語ってくれた経義の教えを学ぶには、父とねんごろに過ごした時間が短すぎました。嫡子である忠倫は、亡くなった父の遺志を受け、その父の人生を墓石に記録します。

良重の娘は、旗本の梶川秀進に嫁いでいます。この「秀進」の父「頼照」は、忠臣蔵で有名な「浅野内匠頭」が、松の廊下で「吉良上野介」に切りつけた時、「浅野内匠頭」を取り押さえた人物です。「頼照」は取り押さえた功績で加増されています。詳細はこちら


https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/hatamoto-kajikawa

5代「忠世」、通称は「平右衛門」、「小善次」です。「重定」という名もあった様です。父の「重世」には家を継ぐ男子がいませんでしたので、青木小右衛門正完の三男を養子に入れ「忠世」となります。

寛政重修諸家譜1077巻には、「重世やしない子とす。実は青木小右衛門正定が子なり。青木氏の系図別に出す。」と書かれているので、かなり小さい頃から「重世」によって育てられたと思われます。また、実母、つまり、青木小右衛門正定の妻は、飯室次郎兵衛昌喜の娘であったと書かれています。

「忠世」は養子ですが、4代「重世」の説明で書きました通り、「重世」の弟である松井半吾元真の娘が「忠世」の妻になっていますので、血筋は繋がっています。

寛永16年(1639年)11月6日から大献院(徳川家光)に仕えはじめ、寛永17年(1940年)3月19日に御小姓組に列しましたが、先述の通り、寛永19年(1642年)11月1日に父親の「重世」が徳川家光の御勘気を被ったため、父と共に慶安4年(1651年)10月17日まで閉門を命じられます。父「重世」と共に約9年間不遇な生活が続きました。明暦元年(1655年)11月25日に家督を相続し御小姓組番頭を辞した後、小普請を賜り、延寶5年(1677年)12月12日に隠居しました。「忠世」は元禄9年(1696年)正月6日に亡くなり、享年80歳でした。法名は「遊斎」です。

墓石11番で眠っています。戒名は元了院殿釋遊斎です。

「忠世」の墓石の裏には、次のようなことが刻まれています。

一 父 犬 塚 平 右 衛 門 尉 重 定 法 名 遊 斎 生 子 主 日 本 氏 家 而
彰 育 于 祖 父 先 年 平 右 衛 門 尉 重 世 法 名 宗 休 孝 思 深 窹 寐
䉆 行 盖 枔 定 有 而 長 受 明 暦 元 乙 未 歳 養 家 禄 継 犬 塚
之 氏 而 奉
幕 下 忠 良 抜 郡 而 吐 哺 武 事 堅 持 而 志 誌 縉 徳 澤 興 枔
家 門 元 勲 末 柃 宗 祖 可 譜 書 善 書 焉 終 包 寛 丈
五 乙 巳 年 致 仕 予 亦 續 三 世 之 餘 緒 重 荷 惠 情 深 涼 同 心 澤
而 今 歳 丙 子 孟 春 六 八 十 四 歳 以 天 然 而 仙 遊 住 事 断 䐧 迅 景 呑
壱 白 髪 暫 存 如 雷 露 青 山 長 月 有 霞 烟 誠 死 生 有 命 空 拭
涙 㾗 杸 毫 追 時       犬 塚 平 兵 衛 尉 良 重 謹 誌     

【以下訳文】

父、犬塚平右衛門重定(忠世)の法名は遊斎で日本の名家に生まれました。重定(忠世)を育てた父は、平右衛門重世で法名は宗林でした。重世は、蔦が枝葉を徐々に覆っていく様に物事を深く静かに思考する聡明な人で、明暦元年乙未の年に家禄と犬塚の家名を重定(忠世)に譲りました。重定(忠世)は、徳川幕府の中で抜群の忠義を尽くし、武芸の鍛錬を怠らず、また祖先の功績を収集し書き記しました。延寶5年に役目を辞し、重責から開放される涼やかな思いと、それを三世(良重)が引き継ぐ苦労を思い遣りながら家督を譲りました。騒がしい俗世間のことから離れ悠然と暮らしていましたが、今年の孟春(1月)6日に84歳で亡くなりました。三日月が出ている深い山々には霞がけむり、今、そこに景色を飲み込む一条の白髪のような稲光が走りました。誠に生と死の間に命があります。涙を拭った痕に筆を走らせています。犬塚平兵衛良重が謹誌。

「忠世」には3人の娘がありました。

長女は、大御番北条伊勢守組 坪内平左衛門定経に嫁ぎました。

次女は、御小姓組加々爪甲斐守組 高林興五右衛門昌近に嫁ぎました。

三女は、二之丸御廣敷番頭 榊原左大夫政澄に嫁ぎました。

「近世都市江戸の社会構造」(岩淵令次 著)の 第二章 近世中、後期江戸の「家守の町中」の実像 で、忠世が日本橋通壱丁目付近(現在のコレド日本橋付近)に町屋敷を所有していたという記述があります。



岩淵氏は、忠世がこの時期、将軍家光の勘気を被っていたので、忠世自身が住んでいた可能性があると一旦、考察していますが、犬塚家は一番町(現在のインド大使館付近)に屋敷を賜っていたので、結論通り賃貸に出していたと思います。また、忠世が亡くなった後、名義は坪内平右衛門定経に嫁いだ長女になったと記述されています。旗本である忠世が、町屋敷を所有し賃貸業を営んでいたのであれば、何とも興味深いことです。

4代は「重世」、通称は「平右衛門」、「小善次」です。13歳の時に「台徳院」(徳川秀忠)に小姓として仕えました。 寛永2年(1625年)7月27日に下総國匝瑳郡(千葉県匝瑳(そうさし)市)に500石の知行地を与られました。秀忠、家光に従い3年間の京都滞在を経て、寛永8年(1630年)4月10日に御納戸となりました。

「大献院」(徳川家光)に仕えて寛永10年(1633年)4月10日に御膳奉行となり、6月3日に相模國愛甲大住郡にさらに200石の知行地を与えられ合わせて知行地は700石となりました。寛永19年(1642年)11月1日に江戸城二の丸に出仕の時、家光の御勘気を被り、慶安4年(1651年)10月17日に赦免になるまで、閉門を命じられました。不遇が約9年間続いた様です。(同年の4月に家光が死んだので赦免になったと思われます。)

お茶の水大学大学院人間文化研究科の福富真紀と言う方が、【近世前期御小姓組番支配の一考察】という研究をされており、偶然にもその中に「重世」とその子「忠世」に関する記載があります。

「重世」は明暦元年(1655年)9月28日に亡くなり、享年66歳でした。法名は「宗休」です。「重世」は、12番の墓石に眠っています。戒名は光照院殿釋宗休です。

「重世」以降、犬塚家の菩提寺は代々文京区小石川の善仁寺となります。「重世」から私の祖父である「東平」まで、墓石は善仁寺に現存しています。

第3代 忠次 (1556-1613)

3代「忠次」、通称は「平右衛門」。「忠重」という名もあった様です。第2代と同じ名前を名乗っていた様です。ここでは、2代を「正忠」3代を「忠次」と致します。

「忠次」は、数々の戦いに参陣し、御使番として戦場を駆け巡り、二条城、彦根城、江戸城などの築城に貢献し、さらに【慶長國繪圖】の作成に携わるなど、武芸と行政の両方に長けた傑出した人物であったようです。


「忠次」は、元亀2年(1571年)15歳の時に「岡崎三郎信康」に仕えました。同年2月、「信康」は、大井川を超えて徳川領内に侵攻してきた武田信玄軍2万5千人と交戦し、また翌3月5日には、東遠江の高天神城(たかてんじん城)を取り囲んだ武田信玄軍と交戦しました。「忠次」は、この武田軍との戦いに参陣、戦功を上げたと伝えられています。

その後、「忠次」は、東照宮(徳川家康)に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは家康の名代として御使番を務め、また慶長5年(1600年)4月の関ヶ原の戦いでも再び御使番として活躍しました。


関ヶ原の戦いの翌年、1601年(慶長6)徳川家康は、「忠次」を二条城の普請奉行に任じます。

さらに、1604年(慶長9)徳川家康は、「井伊直継」に佐和山城の北西にある磯山に彦根城の築城を命じ、また「宮内少輔忠久」、「佐久間河内守政実」、「犬塚忠次」の3名を普請奉行に任じ「直継」を助勢させました。


1605年(慶長10)徳川家康は、統治者として国土の基本図と国土土地台帳を完備するため地図編纂事業に着手し、「西尾吉次」を総奉行として、更に「津田秀政」、「牧長勝」、「犬塚忠次」の3名を奉行に任じて、全国の諸大名に国絵図と郷帳の作成提出を命じました。この絵図は、【慶長國繪圖】とよばれ、郡ごとに色を変えて郡の範囲と村々の位置が示され、郡名・村名・村高や他に山・河・海・の地形、主要な街道、一里塚の位置、名所宮跡等が示されています。

詳しくは、こちら

https://www.kagakushoin.com/products/detail.php?product_id=216

1607年(慶長12)に行われた江戸城の普請に関しても、「忠次」は、石垣の石を運ぶ石艘の手配に深く関わっていたという研究があります。


詳しくは、こちら

http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/sg04709.pdf?file_id=9060


「忠次」は、1613年(慶長18)2月19日に亡くなり、享年57歳でした。


相馬氏(相馬中村藩)に関する別の資料によると、「犬塚忠次」の桜田屋敷は、現在の農林水産省の場所にありましたが、1601年(慶長6)11月に相馬氏(相馬中村藩江戸藩邸)にその屋敷を譲り、別の場所に移ったそうです。

日比谷公園から農林水産省を望む2023年2月23日

詳しくは、こちら

http://chibasi.net/hanshu1.htm

また、「犬塚忠次」には「三十郎正長」(求馬之介)という弟がいました。「正長」は、井伊家の家臣になって関ヶ原の戦いで、主人井伊直政に従い武功をたて、これ以降、井伊家の犬塚家は1500石の用人役(家老・中老に次ぐ地位)を代々努めました。「正長」の赤備えを身につけた雄姿は、井伊家に伝来する「関ヶ原合戦図」の屏風絵の中で直政近くに描かれています。

「花の生涯」の中に登場する「犬塚外記」は求馬之介の子孫です。

第2代 正忠

2代は「正忠」、通称は平右衛門、「忠次」「定長」「七蔵」という名もありました。東照宮(徳川家康)に仕えて、三河国の合歓木村(ねむのきむら)に居ました。墓石もこの付近に有るのかも知れません。享年70歳、法名は「宗句」でした。

第1代 忠吉

家祖は「忠吉」、通称は太郎右衛門です。現在までのところ、これ以上の詳細はわかっていません。