亀(1858年生れ、1936年没)

「忠三」の ご子孫から頂いた 「亀」の写真

「亀」は、「小善次」と「美子」の四男です。「亀」という名前は元服前の幼名です。江戸時代まで武士は、まず幼名が命名され、元服後、生涯の名前を命名されました。明治維新(1868)の時、「亀」は10歳でしたので元服ができませんでした。「亀」は、生涯幼名を名乗りました。

犬塚家の世継ぎは「忠親」でしたので、「亀」は薪炭問屋の小僧に出されました。神田三河町の後、深川の大工町の五軒長屋に移り住んだと言い伝えられています。成人した「亀」は、屑屋を営み生活はかなり苦しかったようです。伊東家から「はな」が嫁いで来ました。「亀」と「はな」には、4人の男子と一人の女子がいました。長男は「喜一」次男「清二」三男「忠三」四男「東平」です。娘の名前は、残念ながら伝えられていませんが、「亀」が残した過去帳に「犬塚梅(釋妙清信女)大正九(1920)年四月没」と記されており、これが「亀」の娘でははいかと思います。

「亀」が書き残してくれた過去帳は、先述した「梅」の存在、墓石の損傷が激しく文字が読み取れなかった「忠親」の次男「音吉」の名前などを明らかにし、また、墓石に記載がないため、その存在すら気が付かなかった「忠親」の長男「金一」、四男「余四郎」のことも教えてくれました。この過去帳は、特に、寛政重修諸家譜以降から現代戸籍が出来るまでの貴重な情報を提供してくれました。


「亀」が保管していた過去帳 「喜一」のご子孫の方からのご提供重修

「亀」が保管していた過去帳 1

「亀」が保管していた過去帳 2

「亀」が保管していた過去帳 3

「亀」が保管していた過去帳 4

「亀」が保管していた過去帳 5

「亀」が保管していた過去帳 6

「亀」が保管していた過去帳 7

「亀」が保管していた過去帳 8

「亀」が保管していた過去帳 9

「亀」が保管していた過去帳 10

「亀」が保管していた過去帳 11

「亀」が保管していた過去帳 12
「亀」が保管していた過去帳 13

「亀」が保管していた過去帳 14

「亀」が保管していた過去帳 15

「亀」が保管していた過去帳 16

「亀」が保管していた過去帳 17

「亀」の当時の暮らしの様子は、「亀」の四男「東平」が自叙伝の中で書いていますので、そちらをご覧ください。

チカは、「忠親」と「き乃」の長女です。間野家に嫁ぎました。間野家の墓石は、善仁寺にあります。「東平」の自叙伝によれば、間野家は歯科医だったと伝えられています。

「みさ」は、「忠親」と「き乃」の次女です。倉田家に嫁ぎました。「東平」の自叙伝によれば、倉田家は洋服屋を営んでいたと伝えられています。

文子

「文子」は、「忠親」の娘で倉田家の「真吾」に嫁いだ「みさ」の子供です。倉田家の墓石は、「忠親」「忠邦」「小善次」「忠盈(寛之丞)の側に位置しています。

実は、この家系図調査の発端は、偶然、私の母が「文子」さんに善仁寺でお会いし、倉田家と犬塚家の縁をお聞きしたことがキッカケです。

文子さんの母「みさ」が両親(「忠親」と「き乃」)の側に倉田家の墓石を設けたいと願ったと「文子」さんが語っていたと伝えられています。

「文子」さんの甥に当たる方に倉田家の家系図をお聞きしましたので、掲載させて頂きます。

き乃は、「忠親」の妻です。善仁寺に「忠親」と共に眠っています。

「き乃」に関することが、「東平」の自叙伝に書かれていました。それによれば、「亀」の長男「喜一」に縁談を持ってきたのは「き乃」だったそうです。

以下「東平」の自叙伝を原文のまま、関連するところを抜粋します。

「此後六月か七月頃お母さんが、突然朝、脳溢血の発作を起こし大騒ぎになり、直ちに近所の病院に入院させた俺の大坂行きを止めさせたのも、こうゆう事の暗示かもしれない、それでも、半年間位で自分一人で、歩けるようになり一応退院した、此間親父は毎日天理教にいって、当人の言ふ丈の人助け運動をしていた、ところが、お母さんは、やっと自分の用だけ、出来るだけで、朝、昼、晩の飯の仕度が親父と俺の仕事になってきた、朝の味噌汁の実なんか、家の筋向かいがハ百屋であったので、タマネギを買って家へ帰る途中で皮をむきながら、帰った事を思い出す、兄貴の喜ーは、親からの嫁の話は一切受付ず何かあった様だった、ところが、「縁」と言ふのは判らないもので、普段行き来もしてなかった、前述の忠親の未亡人が話を持ってきたので、やっと我々も炊事には助かった・・・」

当時、「忠親」やその妻「き乃」は、今の六本木付近(仲ノ町や市兵衛町2丁目)に住んでいましたが、一方、その弟の「亀」は、深川大工町に住んでいたので、普段の行き来はなかったようです。

日本人物体系によれば、

犬塚歯科医院長、歯科医師、東京府在籍

氏は、東京府人犬塚忠親の長男で、明治25(1892)年12月東京市麻布区に生まれ、明治38(1905)年6月に父「忠親」が亡くなり、13歳で家督を継いだ。早くから専門医学の研鑽を積み、大正8(1919)年10月27歳で満洲に渡り、満州鉄道に入社し大連医院に勤務する。大連医院で約5年間、歯科学の研究に従事し、大正13(1924)年32歳の時に文部省歯科開業試験に合格、同年に満州鉄道を退職して独立し、大連市に犬塚歯科医院を開業、一般診療に従事した。【家族】妻:マツヱ、明治37(1904)年生まれ、長崎県、田村秀太郎の娘、長男:健、大正13(1924)生れ、長女:康枝、昭和1(1926)年生れ、次男:徹、昭和3(1929)年生れ、【住所】大連市西通52電2 1058

新日本人物体系 表紙
新日本人物体系 掲載ページ
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新日本人物体系 裏表紙

亀の次男「犬塚清二」は、母親「はな」(亀の妻)の実家、伊東家に養子に行きました。跡取りがいなかったと伝えられています。その後「伊東清二」は「とよ」と結婚、昭和2年に女子「道子」が生まれました。

「道子」は成長し、言い伝えによると、東京駅丸の内側にある東京中央郵便局に勤めていまし。当時の東京中央郵便局は建て替えられ、現在は跡地にJPタワーが建っています。

「伊東清二」は昭和17年(1942年)に亡くなられ、伊東家の菩提寺である領玄寺(台東区谷中4丁目3-5)に眠っています。

領玄寺
橋本家の墓石

妻「とよ」と娘「道子」は墨田区千歳町に居住していましたが、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲(下町空襲)で亡くなられました。「とよ」は(41歳)、道子は(19歳)でした。

両人のご遺体は見つからなかったと伝えられています。お二人は、墨田区横網町の都立横網町公園にある東京都慰霊堂に合祀されています。二人のお名前は、東京空襲犠牲者名簿第三巻に記載され、その名簿は同公園内の「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の中に納められています。

横網町公園 西門
東京都慰霊堂
東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
東京都慰霊堂に保管されている名簿

更に、東京大空襲・戦災資料センター(江東区北砂1丁目5-4)で調べて頂いたところ、「伊東とよ」と「伊東道子」の名前が「都内戦災殉難者霊名簿」に記載されていることがわかりました。この名簿は、昭和27年(1952)から昭和30年(1955)頃に届け出によって纏められました。この名簿には届け出た方の氏名と住所を記載する欄があり、お二人の名前を届け出た方の詳細は、「中央区湊町1-9 橋本勝次郎」 と書かれています。そして「伊東とよ」との続柄には「姉」、「伊東道子」との続柄には「伯父」と書かれていました。

東京大空襲・戦災資料センターで頂いた名簿

「東平」の記録には、「忠三」と共に「清二」の永代供養をしたとの記述があり、そこに「とよ」の縁者として「橋本健」という方のお名前が出てきます。「橋本勝次郎」と「橋本健」の続柄は不明ですが、縁者であることは間違いないと思います。

領玄寺のご住職のお話では、現存する2つの墓石のうちの一つは「清二」のものであり、もう一つは伊東家のご先祖のもというお話だったので、このもう一つの墓石が「橋本勝次郎」のものかも知れません。

また、この名簿には、(東京大空襲の時の)避難時住所と遭難地に記載がありました。避難時の住所は「墨田区千歳町3-30」、遭難地は「中和国民学校付近」と書かれていました。同センターで頂いた現在と当時の地図は下記の通りです。

明治40年(1907)代の両国界隈
現在、令和4年(2022)代の両国界隈

同センターには「遺骨霊名簿」というも名簿がありますが、こちらにお二人の名前はありませんでした。「遺骨霊名簿」は、東京大空襲の直後、東京都の職員が、遺体に付着した名札などから目視で確認した情報に基づいています。「遺骨霊名簿」に記載された方の遺体は、仮埋葬の際、墓標などを立て、どの遺体が、誰のものか識別できるかたちで土葬され、戦後、改装事業に際し、東京都が火葬し、個別の骨壺に入れて東京都慰霊堂に保管されています。

先述の通り、聞き伝えによれば、お二人の遺体は発見されなかったので、同センターでの調査の結果と一致します。

伊東家のあった寿3丁目付近
中和小学校へは、この先の清澄通りを越えて3分の距離 この道沿いの何処かで罹災したらしい
現在も中和小学校はある
中和小学校の裏手の通りから見た校庭
中和小学校の裏手の通り

伊東家は、「清二」が養子に入りましたが、結局、絶えてしまいました。「忠三」「東平」によって永代供養の手続きがなされたと記録されています。