正忠
(平右衛門、七蔵、忠次)
三河碧海郡合歓木の在地領主でした。吉良家に仕え、巨海城の城主でしたが永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの頃、城を捨て合歓木に落住しました。(国立公文書館に収蔵されている三国聞書集や岡崎東泉記に記述がります。)
永禄6年(1563)三河一向一揆に加わり針崎の勝鬘寺に立て籠り家康に抵抗しましたが、永禄7年(1564)2月に赦免されました。「犬塚平右衛門先祖書」に家康から御筆を拝領したと記述されていますが現存していません。享年70歳、法名は「宗句」でした。
父:犬塚忠吉
母:酒井美作守忠員の娘
妻:酒井雅樂助政家の妹(本朝武家諸姓文脈系図、酒井氏及び姫路藩士緯田次郎右衛門編纂 徳川酒井略文脈)
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忠吉
三河碧海郡合歓木の在地領主でした。
西条吉良家に仕え、巨海城城主でした。(国立公文書館に収蔵されている三国聞書集や岡崎東泉記に記述がります。)
父:犬塚忠英
母:巨海氏の娘か
妻:遠江国住人 酒井美作守忠員の娘 天正14年(1586)10月15日に亡くなりました。法名は道樹院香兆宗永大姉でした。
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政忠

(掃部助 かもんのすけ、小次郎)
三河碧海郡合歓木の在地領主でした。
永享11年(1439)今川上総之介範忠に仕えました。
永享12年(1440)鎌倉公方足利持氏と結城氏追討(結城の乱)で武功をあげました。
長禄3年(1459)9月3日に亡くなりました。法名は浄梅です。
父:犬塚政英
母:不詳
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政英

(左近左衛門尉、正英)
父、太郎太夫が大河原で討ち死にした時、遠州の井伊谷にいました。親王(尹良親王と思われる)の隋兵も井伊谷に分散し潜み、やがて井伊家に仕えました。
この後、犬塚家は三河碧海郡合歓木に移りました。
父:犬塚政長
母:中澤刑部の娘
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犬塚政長

(小山五郎左衛門尉、犬塚太郎太夫)
応永31年(1424)8月15日 信濃国大河原で起きた浪合合戦で討ち死にしました。犬塚姓を称した最初の人物と思われます。
父:藤原政泰
母:宇都宮元網の娘
妻:中澤刑部の娘
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藤原政泰

(小山右衛門佐、餘一)
都賀郡(つがぐん)犬塚郷の領主でした。犬塚郷の小山から徐々に「犬塚」と呼ばれるようになり、やがて姓として「犬塚」が使われるようになったのだろうと思います。(都賀郡は現在の栃木県西部にありました。)
父、五郎左衛門尉と共に南朝の首都である賀名生(がのう)で天皇に仕えました。
各史料を比定した結果、家紋の伝説「犬追物」を行ったのは、この人物であったのではないかと推定します。
父:小山五郎左衛門尉秀政
母:東 平太胤有の娘
妻:宇都宮元網の娘
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小山五郎左衛門尉藤原秀政

(五郎、左衛門尉)
藤原北家の支流の人物です。天慶2年(940)に「将門の乱」を平定した「藤原秀郷」から数えて16代目の子孫であり、また治承4年(1180)に「源頼朝」の挙兵に応じた「小山下野守判官藤原朝政」から数えて7代目の子孫が「秀政」になります。
元弘2年(1332)3月、秀政は隠岐へ流される後醍醐天皇の警護をしていました。その時、美作国において後醍醐天皇に随従した「千種忠顕」から桜の一枝と共に次のような歌を賜ったと「増鏡」に記されています。
「うき旅と思ひは果てじ一枝も、花のなさけのかかる折りにて」
(このような折に、たとえ一枝の花の情けがあったとしても、この旅はつらい旅だという認識を、私は捨てるつもりはない)
「『うき旅と思ひ』は『憂き旅と思ひ』であり、後醍醐天皇の流罪(隠岐)そのものではなく、南北朝期の政治的・歴史的に不安定な状況を引き受けて進む苦難の遍歴であるとの思いであり、それは一枝の櫻花の情けがあっても変わるものではない」と解釈しました。
建武3年(1335)4月「武者所結番交名一番」(京都市中の警備・軍事的実働部隊の最上位)となります。
正平7年(1352)後村上天皇に従い、南朝(吉野朝廷)の首都となった賀名生(がのう)に退きます。
父:小山貞朝
母:中条宗長の娘
妻:長井時秀の娘
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