き乃 (1867年生れ、1937年没)
き乃は、「忠親」の妻です。善仁寺に「忠親」と共に眠っています。
「き乃」に関することが、「東平」の自叙伝に書かれていました。それによれば、「亀」の長男「喜一」に縁談を持ってきたのは「き乃」だったそうです。
以下「東平」の自叙伝を原文のまま、関連するところを抜粋します。
「此後六月か七月頃お母さんが、突然朝、脳溢血の発作を起こし大騒ぎになり、直ちに近所の病院に入院させた俺の大坂行きを止めさせたのも、こうゆう事の暗示かもしれない、それでも、半年間位で自分一人で、歩けるようになり一応退院した、此間親父は毎日天理教にいって、当人の言ふ丈の人助け運動をしていた、ところが、お母さんは、やっと自分の用だけ、出来るだけで、朝、昼、晩の飯の仕度が親父と俺の仕事になってきた、朝の味噌汁の実なんか、家の筋向かいがハ百屋であったので、タマネギを買って家へ帰る途中で皮をむきながら、帰った事を思い出す、兄貴の喜ーは、親からの嫁の話は一切受付ず何かあった様だった、ところが、「縁」と言ふのは判らないもので、普段行き来もしてなかった、前述の忠親の未亡人が話を持ってきたので、やっと我々も炊事には助かった・・・」
当時、「忠親」やその妻「き乃」は、今の六本木付近(仲ノ町や市兵衛町2丁目)に住んでいましたが、一方、その弟の「亀」は、深川大工町に住んでいたので、普段の行き来はなかったようです。
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冬雄(1891年生まれ、1946年没)
日本人物体系によれば、
犬塚歯科医院長、歯科医師、東京府在籍
氏は、東京府人犬塚忠親の長男で、明治25(1892)年12月東京市麻布区に生まれ、明治38(1905)年6月に父「忠親」が亡くなり、13歳で家督を継いだ。早くから専門医学の研鑽を積み、大正8(1919)年10月27歳で満洲に渡り、満州鉄道に入社し大連医院に勤務する。大連医院で約5年間、歯科学の研究に従事し、大正13(1924)年32歳の時に文部省歯科開業試験に合格、同年に満州鉄道を退職して独立し、大連市に犬塚歯科医院を開業、一般診療に従事した。【家族】妻:マツヱ、明治37(1904)年生まれ、長崎県、田村秀太郎の娘、長男:健、大正13(1924)生れ、長女:康枝、昭和1(1926)年生れ、次男:徹、昭和3(1929)年生れ、【住所】大連市西通52電2 1058
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清二 (生年不明、1942年没)
亀の次男「犬塚清二」は、母親「はな」(亀の妻)の実家、伊東家に養子に行きました。跡取りがいなかったと伝えられています。その後「伊東清二」は「とよ」と結婚、昭和2年に女子「道子」が生まれました。
「道子」は成長し、言い伝えによると、東京駅丸の内側にある東京中央郵便局に勤めていまし。当時の東京中央郵便局は建て替えられ、現在は跡地にJPタワーが建っています。
「伊東清二」は昭和17年(1942年)に亡くなられ、伊東家の菩提寺である領玄寺(台東区谷中4丁目3-5)に眠っています。
妻「とよ」と娘「道子」は墨田区千歳町に居住していましたが、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲(下町空襲)で亡くなられました。「とよ」は(41歳)、道子は(19歳)でした。
両人のご遺体は見つからなかったと伝えられています。お二人は、墨田区横網町の都立横網町公園にある東京都慰霊堂に合祀されています。二人のお名前は、東京空襲犠牲者名簿第三巻に記載され、その名簿は同公園内の「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の中に納められています。
更に、東京大空襲・戦災資料センター(江東区北砂1丁目5-4)で調べて頂いたところ、「伊東とよ」と「伊東道子」の名前が「都内戦災殉難者霊名簿」に記載されていることがわかりました。この名簿は、昭和27年(1952)から昭和30年(1955)頃に届け出によって纏められました。この名簿には届け出た方の氏名と住所を記載する欄があり、お二人の名前を届け出た方の詳細は、「中央区湊町1-9 橋本勝次郎」 と書かれています。そして「伊東とよ」との続柄には「姉」、「伊東道子」との続柄には「伯父」と書かれていました。
「東平」の記録には、「忠三」と共に「清二」の永代供養をしたとの記述があり、そこに「とよ」の縁者として「橋本健」という方のお名前が出てきます。「橋本勝次郎」と「橋本健」の続柄は不明ですが、縁者であることは間違いないと思います。
領玄寺のご住職のお話では、現存する2つの墓石のうちの一つは「清二」のものであり、もう一つは伊東家のご先祖のもというお話だったので、このもう一つの墓石が「橋本勝次郎」のものかも知れません。
また、この名簿には、(東京大空襲の時の)避難時住所と遭難地に記載がありました。避難時の住所は「墨田区千歳町3-30」、遭難地は「中和国民学校付近」と書かれていました。同センターで頂いた現在と当時の地図は下記の通りです。
同センターには「遺骨霊名簿」というも名簿がありますが、こちらにお二人の名前はありませんでした。「遺骨霊名簿」は、東京大空襲の直後、東京都の職員が、遺体に付着した名札などから目視で確認した情報に基づいています。「遺骨霊名簿」に記載された方の遺体は、仮埋葬の際、墓標などを立て、どの遺体が、誰のものか識別できるかたちで土葬され、戦後、改装事業に際し、東京都が火葬し、個別の骨壺に入れて東京都慰霊堂に保管されています。
先述の通り、聞き伝えによれば、お二人の遺体は発見されなかったので、同センターでの調査の結果と一致します。
伊東家は、「清二」が養子に入りましたが、結局、絶えてしまいました。「忠三」「東平」によって永代供養の手続きがなされたと記録されています。
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政次郎
八代 犬塚政次郎
通称:喜三
母 西尾 治朝晋女
明治二十五年(1892年)九月十四日生
昭和四十二年(1967年)五月七日卒
享年七十六才
法名:瑞雲院殿喜譽大心居士
政次郎室 安居藤平女 名:房 明治三十二年(1899年)一月九日生 昭和三十二年(1957年)二月十九日卒 享年五十九才 法名:瑞光院殿満譽法徳大姉
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正道
七代 犬塚正道
通称:十太郎
母 子安左内女
安政四年(1857年)二月三十日生
明治三十一年(1898年)四月二十八日卒
享年四十二才
法名:謙譲院殿仁譽守節正道居士
正道室 西尾 治(治部之介)朝晋女 名:捨、捨留、壽 慶應元年(1865年)正月十九日生 明治十三年(1880年)婚姻 明治三十二年(1899年)五月三十日卒 享年35才 法名:無量院殿徳譽快楽妙壽大姉
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正安
六代 犬塚正安
通称:吉之介 源之亟
母 八代吉郎右衛門女 文政十二年十月二十六日卒
法名:妙運智海信女
文化十年(1813年) 月 日生
慶応三年(1867年)三月十七日卒
享年五十五才
法名:明壽院殿湖山寛仁居士
正安室 犬塚求之介忠國女 名:秀 文政二年(1819年)正月九日生 文政九年(1826年)二月二十九日縁組 願之通被仰付候 天保元年(1830年)七月二十九日 未婚卒 享年十二才 法名:智善院妙室惠秀童女
次室 犬塚嘉膳正其女 名:和佐 文化十四年(1817年) 月 日生 後離別 弘化三年(1846年)閏五月二十八日卒 享年三十才 法名:法性院殿夏月明游大姉
三室 神崎郡金堂村弘誓寺女 名:御津穂 後離別
四室 摂州能勢郡吉野郷士 子安左内女 名:美那 天保九年(1838年) 月 日生 慶応二年(1866年)十一月九日卒 享年二十九才 法名:安子院殿柳水妙智大姉
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正陽
五代 犬塚正陽
通称:留五郎 源之亟 十左衛門 原之亟 外記
号:青山、花月 字:子乾
※實は宇津木弥平太久徹五男
母 川添氏女 文政二年(1819年)九月朔日卒 法名:寶聚院殿仙峯貞壽比丘尼 享年六十七才
天明五年(1785年) 月 日生
文久元年(1861年)五月十一日卒
享年七十七才
法名:小雅院殿青山白雲居士
正陽室 三浦五郎右衛門高保女 名:婦美
年 月 日生 明治八年(1875年)十一月二十日卒 享年 才 法名:清操院殿蕙質松心大姉
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正盈
四代 犬塚正酉 後改正盈
通称:十之亟 嘉膳 十左衛門 閑齋
母 河手頼母良至女
宝暦三年(1753年) 月 日生
文化八年(1811年)十一月十一日卒
享年五十九才
法名:寂靜院殿精譽閑齋居士
正盈室 河手文左衛門良忠嫡女 名:千尾 年 月 日生 享和二年(1802年)三月二十五日卒 享年 才 法名:清照院殿春月慈光大姉
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正光
三代 犬塚正辰
改正泰 後改正光 通称:半三郎 十左衛門
母 中村加介勝周女
享保十二年(1727年) 月 日生
明和元年(1764年)十二月十一日卒
享年三十八才
法名:靜遷院殿寛廣寂潭居士
正辰室 河手頼母良至女 名:麻 年 月 日生 文化二年(1805年)九月十一日卒 享年 才 法名:理性院殿法室香琳大姉
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